風のメモワール66

死と死神


2008.7.10

映画は予告編と主演の金城武のインタビュー以外は見ていないけれど、
原作の『死神の精度』(伊坂幸太郎)を読んでみた。
死神を演じた金城武の魅力的な表情と話し方に興味をひかれたからである。
この死神は(死神らしく)死をほとんど特別視せず、
従って、人間とその表現のありようをあまり理解しないまま、
理解が欠けているぶんだけむしろ興味深い仕方で人間に接する。

ちょうど、同じ金城の名字をもった作家、金城一紀の『対話編』の
最初に収められている「恋愛小説」という作品にも
自分に近づくひとがことごとく死んでしまうことになると、
みずからを死神のように形容する人物がでてくる。
死神の金城×金城である。

死神といえば、死刑執行を相次いで行なったことで
死神といわれて怒った鳩山法相もいたが、
(個人的にいえば、やはり死刑制度には死への無知があると思っているが、
死神というふうに形容するというのもやはり馬鹿げている)
「死神の精度」の主人公、死神の千葉が
死神も神といえば神だというようなことをいうところがある。
たしかにそうだ。
けれど、死神のイメージはあまりいいとはいえない。
死について、人間には特別な思いがあるからだろう。

そういえば、『西の魔女が死んだ』のシーンに
おばあちゃんが、こう話すところがある。
「人が死んだらどうなるのか、
おばあちゃんが信じていることを話しましょうね」

小さな頃、自分が死んでしまうところを想像し、
今こうしてここにいる自分が、
この思いそのもののすべてがみんな、
つまり自分にとっての世界の主体が
なくなってしまうことを想像して
そのあまりの空虚さとおそれで
眠れなくなってしまうことがよくあった。

もちろん、いまは、痛みとかは避けたいと思っているものの、
死そのものへのおそれはとくにこれといってない。
そんなに若くもないというのもあるのかもしれないが、
むしろ、こうして生きていることのほうが、ずっとこわい。
というかひどく面倒なところがある。
でもその面倒さこそが、醍醐味だということもできる
だから、積極的に死のうとは思わない。

仏教では生老病死をはじめとする四苦八苦を超える
「解脱」を説いていたりするが、
その場合の、輪廻は苦そのものとして説かれる。
一方で、道教では不老不死をいったりもする。
その他にも、さまざまな死生観や
それを超えるための「観」があるが、
それらに共通するのは、生と死を
その肉体的な現象面以外では区別しないということなんだろう。

とはいえ、多くの人は、実際問題として、
死後も生前も似たように生きているというので
その意味でも、生死をそんなに区別できないともいえるけれど、
もちろん、いわゆる「悟り」とでもいうときには、
ある意味、この時空を垂直に超えた「永遠の今」において
存在することになるのだろうから、その意味でも
生死はそんなに区別するほどのことでもないのかもしれない。

さて、「西の魔女」のおばあちゃんは、
「魔女は自分で決めるんですよ」という。
「意志の力が大切」ともいう。

実際のところをいえば、
ある意味、自分で決めていないものはないともいえる。
うれしいことも苦しいこともぜんぶ自分で決めている。
違いは意識的にか、無意識的にか、の違い。

たぶん、その意識的と無意識的のパーセンテージを
どれだけ変化させるかというのが、
この地上での生のひどくやっかいな課題なのだろう。
やれやれである。