風のメモワール62

チベタン・オリンピック


2008.6.11

5月15日から25日まで、インドのダラムサラで
チベット人のためのオリンピックが開かれるそうだ。
coyote No.29 July 2008の巻頭エッセイで、
編集長・新井敏記が記している。
聖火リレーも1月にはインドのデリーを出発し、
東京にも来ていたのだという。
まったく知らなかった。
来月号のcoyote No.30の特集も
「チベタンオリンピック観戦記」である。
注目してみたい。

オリンピックにひっかけてか、
96年のアトランタ・オリンピックについて書かれた
沢木耕太郎の『冠(コロナ) 廃墟の光』が
文庫化(朝日文庫)されたところだが、
その「文庫版のためのあとがき」にこうある。

   私は、シドニー大会もアテネ大会も現地に行き、取材することに
  なったが、今度の北京には行かないつもりでいる。
   それはチベットの問題が起きる前から決めていたことだった。私
  には、どこかに、アテネで始まった近代オリンピックは、二度目の
  アテネで終わってしまったのではないかという思いがあるのだ。

これはとくに、商業主義的なオリンピックを批判しているというのではない。
あくまでも、沢木自身の個人的な思いとスタンスゆえのことのようだが、
「アテネで始まった近代オリンピック」のなにかが、
すでに終焉を迎えようとしているというのは、少しだけだがわかる気がする。

しかし、金メダルという賞品の熾烈な獲得競争は
その「金メダル」の「金」=マネーを背景に
開催地の問題も含め、かなり馬鹿げた様相を呈しているという感じは否定できない。
水泳の水着ひとつにも企業活動との関係は色濃く、単純な問題としては片付け られない。
もちろんオリンピックが政治であるというのも、すでに常識以外のなにものでもない。
だからといって、北京に行けない亡命チベット人が
インドでオリンピックを、というのもどうかなあとは思うのだが、
それはそれでおもしろそうだというのもある。
しかし、「オリンピック」という名称は
それそのものがお金のからんだ権利になってしまったのではないだろうか。
(〜ピックという名称さえ、現在では使用できなくなっているようだ)
「チベタン・オリンピック」というのは、商売がからまないからいいということか。

さて、それはそれとして、
今回のcoyote No.29のなかに
シナジェティクス研究所の梶川泰司さんの記事があった。
もう十数年前のことだが、広島で
この梶川泰司さんのワークショップに参加したことを懐かしく思い出した。
その後、バックミンスター・フラーにしばらく凝ったことなど。