風のメモワール61

CHANGE


2008.6.5

変わるということはむずかしい。
変わろうとするためには、
変わりたいという切なる熱と
実際に変えることのできる力が必要だからだ。
もちろんそれだけでは変わることはできない。
どのように変わりたいかということが
明らかになっていなければならないし、
さらにそれがそれなりの現実性をもっていなければならない。

木村拓哉主演のテレビドラマ『CHANGE』を
昨夜、第4話までまとめて見た。
今度の木村拓哉は、小学校教師からいきなり代議士に、
そして総理大臣になる話。
http://wwwz.fujitv.co.jp/change/index.html

上記サイトに掲載されている
キムタクへのインタビューのなかに
ドラマのタイトルの「 CHANGE」に
1つアクセントを足すと「CHALLENGE」になる。
という話がでてくるけれど、
たしかに、CHANGEするということは
CHALLENGEするということだ。
少なくとも、「カイカク」ということばを
操られたファナティックなロボットのように
連呼するような「CHANGE」には
CHALLENGEは感じられない。

ドラマは、その背景に
実際の政治や政治家、官僚に対する不信感が背景にあって
それへのアンチテーゼ的なものが
視聴者の熱を誘うところがあるのだろう。
上記サイトには、視聴者の意見を書き込める
「MESSAGE」のコーナーがあるが、
おもしろいことに、実際の議員らしい方が
共感をもってメッセージを送っていたりもしている。

政治や政治家、官僚たちが
CHANGEすることができないとしたら
それはどうしてなのだろう。
政治家をめざす人、官僚になろうとする人が
最初から名誉や組織の保身だけを
主眼に置いていたわけではないだろうし
すべてがそういう方ばかりではないだろうけれど
どこかでなにかを掛け違ってしまうことがあるのだろう。
CHANGEすることによって得られる可能性と
そうするとによって生じるリスクを秤にかければ
どうしてもリスク回避の方向に行ってしまうところがあるのだろうか。
もっとも能力のある人ほど、「現実」を新たな現実にCHANGEするよりも、
既成の現実をさらに強固なものにしようとするほうに
その能力を使おうとするということかもしれない。

しかしもっとも問題になっている根底には
ドラマ『CHANGE』を熱をもって視聴している人自身が
はたしてみずからを「CHANGE」しようとしているかどうか
ということがあるようにも思う。

なぜ今のような世の中になってしまったのかという背景には
「だれか」が今のような世の中をつくったのではなく、
まさに私たち自身がこの世の中をつくっているのだという
皮肉な逆説があるのである。
最近流行っぽい、ネグリの思想にのも
そういうある種の「もともこもなさ」のようなものがあるように思う。
可能性も不可能性もそこにしかないということ。

そういえば、今放送中の『ルーキーズ』も
ある意味、『CHANGE』 のような「熱」の話だといえるかもしれない。
高校生の教師と野球部員の話。

こういうドラマが熱をもって受け入れられるというのは、
私たちのなかのピュアな部分が刺激を受けやすいところがあるのだろうが
要は、CHANGEするためには
熱と力と理念(理想)と現実性が必要なわけで、
それをみずからが担おうとするか、
人に担わせようとするか、ということなのだろう。