風のメモワール60

中沢新一/折口信夫


2008.6.4

風のメモワール60●中沢新一/折口信夫(2008.6.4)

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』
(ちくまプリマー新書082)を読む。
収められているのは、
2006年にNHKで放送された
『私のこだわり人物伝 折口信夫』のテキストをベースに、
『折口信夫前週 第二十巻』折り込み月報の文章と
書き下ろし(最終章)である。

中沢新一は
「折口信夫の文章のない世界など、
わたしにはとうてい考えられない」
という。
「折口信夫は『古代人』の心を探ろうとした人である」。
「柳田国男、折口信夫、南方熊楠の
三人の巨人の頭脳と心が生み出したものは、
日本人に残されたもっとも貴重な宝物である。
わたしはこの宝物をしっかりと護り未来に伝える
水中の龍でありたいと願う」

この際と、折口信夫について、
さまざまに読み進めてみようと思っているが、
たしかにその著作を読むにつけ、
中沢新一のいうように「奇跡的な学問」であるという実感があり、
その遺産を自分なりに咀嚼しておく必要を実感する。

しかし、中沢新一を読み始めた頃には
そんな余裕もなくてただただ興味深く読んでいただけだったが、
さすがに30年ほど経つうちに、
中沢新一の「古代好き」の部分について、
疑問をもつようになった。
オウム真理教のような、
神秘学的にみれば、ほとんど問題にもならないようなあり方に
中沢が親近感を持ってしまっていたのも、
そうした「古代」への無批判の傾斜が原因になっているように思う。

その意味で、中沢新一の論を読む際にもっとも注意が必要なのは、
「古代好き」のあまりに、
すでに失われ新たな能力へと変容しなければならないものまで、
先祖返り的に求めてしまうようなあり方をしてしまうことが
往々にしてあることだろう。
中沢新一の肯定する「唯物論」も
そんな古代と現代的なテクネーとが
危うく合体しているようなところがあるように見える。

そういう、いわば「危ない橋」の部分さえ
注意深く渡る用意があるならば、
中沢新一の著書はやはり読むに値する内容を豊かに秘めている。

たとえば本書でいえば、
「「ムスビ」の神をつくる三位一体の構造」など、
大変に興味深い内容である。
それを示唆している部分を引いておきたい。

   キリスト教では、「ただ一人の神」が父と子と聖霊という三つの顔(ペルソナ)
  を持ち、この三つが一体となって、神の働きをおこなうと考えられている。この
  うち聖霊は、古代以来の霊の思考の伝統を、「父の子」をめぐるキリスト教に独
  特の考え方の中に組み込んだものであるから、日本のムスビの神と深い共通性を
  持っている。キリスト教の三位一体に組み込まれた聖霊では、外からは見えなく
  なってしまっている内部構造が、ムスビの場合にはっきり見えるようになってい
  る。
   聖霊はムスビ神と同じように増殖をする。そしてその聖霊からは、たえまなく
  神の力が流出し、その力が父や子のペルソナに流れ込んで、三者を貫流していく。
  これがキリスト教のありかたをしめしている。わたしたちは別のところで(『緑
  の資本主義』『カイエ・ソヴァージュ』など)で、こういうキリスト教の三位一
  体説が、資本主義を動かしている経済原理と、深いレベルで親和性を持っている
  ことを、あきらかにしてきた。西欧では宗教と経済の間に「同型性」が働いてき
  たのである。
   生産活動をとおして資本金が増えていく資本主義のシステムを理解するのに、
  西欧で生まれた経済学は、キリスト教の考え出した神の内部構造の仕組みを、そ
  っくり利用してきた。そのために、近代資本主義のもっとも早く発達した西欧で
  は、宗教と経済が同じ構造をもとに、増殖をおこなう「物質ー生命ー魂」の運動
  を観察・利用し続けてきたと言える。
  (P.129-130)

このところ、実際のところ教義的に言えば、
ほとんど説明になっていないとさえ思えるようなキリスト教の三位一体など、
さまざまなトライアッドについてずっと考えていたりもする。
おそらく一者はトライアッドを形成しながら世界を生成させてきた。
それは私たちの存在そのものから社会構造にいたるまで
そのダイナミックな形成原理として働いている。
いずれそれについては、まとまってなにか書いてみたいと思っている。