風のメモワール59

オペラ


2008.5.26

   オペラは決して、高尚な一部の人間のための娯楽などではありません。
  人間が一生かけて味わう喜怒哀楽を、数時間に集約して舞台にのせてく
  れるのですから、そうした激しい感情の起伏と接することによって、と
  もすれば摩耗しがちな自らの喜怒哀楽に揺さぶりをかけてやればいいの
  です。凝った肩とか、足裏ばかりではなくて、エモーションのマッサー
  ジを受けに行くことも必要である。私がオペラを観るのをやめられない
  のは、自分の感情や本能をつねにギラギラさせておきたいからです。
  (島田雅彦『オペラ偏愛主義』
   NHK知るを楽しむ この人この世界 2008.6-7月テキストより)

この引用には、ぼくがなぜいままでオペラにふれようとしなかったか、
そしてそこにあるぼくのある種自分が自分にはめてきた枷が
いったいなんだったのかということが如実に表現されている。

「激しい感情の起伏と接する」ことや
「自分の感情や本能をつねにギラギラさせ」ることこそを
ぼくはずっと拒否してきたようである。
「激しい感情の起伏」や
「自分の感情や本能をつねにギラギラさせ」ることを
しっかり自分で受け止めることができないために
それらから距離をとることしかできないでいたということ。

感情や本能に過剰にとらわれないことは重要であるが、
それらに飲み込まれないように
それらの渦のなか行けないというのはひとつの無能力でしかない。
呑み込まれない能力があれば、
どんな感情や本能の渦のなかでも
それらにとらわれることなく平静でいることができるだろう。
それこそ、煩悩即菩提でもある。

もちろん、感情や自己制御能力が未発達のために
それらのなかでみずからを溺れさせるのを好むというのは論外だが、
ある種の自己保存のために、
そうした渦からいつまでも離れているとしたら、
感情や自己制御能力をシフトアップさせることはできないだろう。

これまで食わず嫌いはダメだと思い、
とくにここ数年、オペラを観る(DVDやCDではあるが)ことを
何度か試みてはみたのだけれど、その都度に挫折してしまうことになったのは
あのオペラ的な声の質というのも大きな原因ではあるけれど、
たしかにあの「喜怒哀楽」の激しさについていけないところも
大きな要因になっていたようである。

しかし、「自らの喜怒哀楽に揺さぶりをかけ」ることもたしかに必要なのだ。
自分で自分にある種のトラップをかける意味でも、
この際、「偏愛」ということにはまずならないだろうが、
まずはある種の「修行」として
オペラを鑑賞することを自分に課してみたいと思っている。
この島田雅彦のテキストは、その「修行」を
「遊戯」に変えてくれる格好の素材になりそうである。