風のメモワール58

パン屋の閉店


2008.5.10

悲しいことがあった。

月に何度か、休みの土曜日の朝になると、
出かけるのを楽しみにしていたパン屋が閉店していた。
そこの食パン、ライ麦パンが絶品で
品質のわりにはそこそこの値段。
天然酵母を使ったパンを焼いていて、
脱サラをした方が開いているパン屋だった。

今日、久しぶりに行ってみると
体調不良のため、閉店することになった
という旨の貼り紙がしてあった。
その手書きの文字のある
ひっそりと閉じられた店舗の風景を
ぼくはたぶんずっと忘れないだろう。
その店の裏には、レンゲが静かに咲いていた。

パンと牛乳(またはカフェオレかチャイ)、
そしてヨーグルトとリンゴ(またはほかのフルーツ)。
というのが朝食の定番で、
カリっとしたパンを食べるのは
鬱の朝には欠かせない儀式のようになっている。

今住んでいる町に数年前に引っ越ししたときにも、
どこかにおいしいパン屋はないかと探したものだが、
すでにそこそこ気に入ったパン屋が
2店閉店してしまっていて、
やっと1年少し前に偶然のように見つけたパン屋だったのだ。

ほかの大きな出来事に比べれば
ささいなことなのかもしれないけれど、
こういう、日々のパンなどに関わる変化というのは、
ぼくのなかに静かだけど深く刻印されてしまうところがある。
美味しいコーヒーを飲ませる店がなくなってしまうのも同じ。

しかしこうした、小さいかもしれないけれど、
印象に残る「事件」の積み重ねというのが
ある意味、ぼくという存在のなにがしかを
つくっていくところがあるのだろう。
もちろん、悲しいことばかりではなく、うれしいこともふくめて。

世界はなにごともなく
(もちろん世界にはさまざまなことが日々起こっているけれど)
こうして存在を続けている。
その存在を支えているのは
いったい何なのだろうと考えてみる。
すると、ひとつひとつ浮かんでくるのは
朝に食べるカリっとしたパンだったりもするのだ。

ちょっとおおげさになるが、
パンとワインがキリストの体と血に変化し
それを分け合う聖餐にも似たことが
ほんとうは、そうした日常のひとつひとつなのかもしれず、
道元が『典座教訓』を著し、「食」について
細かく説いていることというのも、そうなのかもしれない・・・
とか、悲しいなかで、いろいろ勝手に思ってしまうことになった
お気に入りのパン屋の突然の閉店だった。