風のメモワール57

真夜中


2008.5.10

  言葉は真夜中の星、
  写真は光、絵はともしび、
  デザインは夢。

季刊『真夜中』という雑誌が
リトルモアから創刊された。

「真夜中」というタイトルにひかれ、
また、中に、西平直「巡礼としてのシュタイナー教育」
という連載も見つけたので、読んでみている。
(その連載は正直、そんなにおもしろくもないけれど、
なかにはそこそこ読めるものもあって、まずまず)

最近、文芸誌+αのような感じの雑誌を
書店で見かけることが多くなったように感じる。
「papyrus」とかいうのも、何度か手に取ったことがあるが、
役者やミュージシャンなどの特集など、わりとおもしろく読める。
しかし、なんだか「文芸」というのも
どこかちょっと疲れるところがある。
よくもまあ、これだけいろんな書く人がいて、
似たようなことを書いてあきないものだと
半ばあきれ、半ば感心してしまう。
おそらく今は、読む人よりも、
書き手のほうがずっと多いのかもしれない、とか。

それはともかく、「真夜中」。

かつて、ぼくが、いわば覚醒しているのは
「真夜中」の時間しかなかったように思う。
中学生から比較的最近までそれは続いた。
それ以外の時間は、ほとんど白昼夢のような時間だった。

いまはさすがに、昼間の仕事もきついし、
歳を食ってきているので徹夜的な生活もちょっと無謀なので、
シンデレラのように12時までには寝て
朝6時頃には起きるような生活になった。
そのほうがたしかに、からだは楽できるし、
時間も有効に使えるところもある。
朝の鳥の声もちゃんとききとることができる。

とはいえ、「真夜中」、というか深夜から朝にかけての時間を
健全なまでに、睡眠時間にあてるようになると
どうも、ぼくのなかでなにかが失われてしまったような
そんな感覚も否定できない。
「真夜中」にしか開示されないなにか。
ぼくのある部分を育ててくれたなにか。

『真夜中』のなかに
堀江敏幸の「真夜中の庭に、ひとつの助詞を」という記事がある。
「真夜中の庭に」というと、
そう、『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス)である。

  トムは、ハティとの出会いを機に、真夜中の周辺にあった時間に
  ついて考えはじめ、おじさんにむかってこう語る。「ほんとうは、
  だれの時間もみんなおなじ大きな時間のなかの小さな部分だけど」
  「人間は、それぞれべつべつな時間をもっている」。だから「だ
  れかよその人の時間のなかへ、過去のなかへあともどりしてはい
  っていくことができる」。さらに、「女の子の方がさきにすすん
  できて、ぼくの時間にはいることができる。ぼくの時間は、その
  女の子の未来に見えているんだけど、ぼくには現在なんだ」と。
   やわらかい言葉で語られたこのトムの考察は、何かを連想させ
  ないだろうか。そう、読書だ。本を読むこと。二読三読し、言葉
  と言葉の、行と行の、頁と頁のあいだに隠れた十三時の扉を何度
  もくぐり抜けて、「だれかよその人の時間のなか」に入り込むこ
  と。それそれがそれぞれの時間を持ち寄り、先んじたり遅れたり
  しながら、現在という時間の流れに抵抗して、ほんとうの真夜中
  を生きるために、あたらしい本、あたらしい雑誌は、あたらしい
  真夜中の周辺を、私たちにそっと指さしてくれる。

そういえば、ぼくにとって「真夜中」の時間は、
読む時間であり、聴く時間だった。
それ以外の時間は、みんなといっしょの時間であることを
ある種義務づけられているところがあったけれど、
「真夜中」の時間だけはそうではなかった。

最近、早寝早起きをすることで失われてしまったのは、
自分だけの「真夜中」の時間だったのかもしれない。
もちろんいまでは、かつてとは異なって、
昼間の時間のなかで、
自分なりの時間を流れさせる技術を
じぶんなりに持つようにはしているものの、
やはり、あの「真夜中」の時間でしか
開示されないなにかがあるのだろう。

今夜は明日が休みというのもあって、
少しだけ「真夜中」の扉のなかに入ってみている。
そして、真夜中の周辺で出会ってきた数々の時間のなかに
入り込んでみることにしよう。