風のメモワール54

かりのそらね


2008.5.6

現代詩手帖5月号の特集は
「偽と虚と空/入沢康夫『かりのそらね』」。
「記憶という底無し沼の方へ」と題して
安藤元雄・野村喜和夫・小笠原鳥類という三世代による
「『かりのそらね』徹底解読」という鼎談が掲載されている。

入沢康夫の新詩集『かりのそらね』については
すでに簡単にふれたことがあるが、
この詩集は「仮構された故郷への10篇の『思ひ出』」である「偽記憶」と
「隠岐の島に重層化された後鳥羽院にまつわる『虚』」であり
ほとんどが文献の引用で構成されている「かはづ鳴く池の方へ」という
二冊で構成されている。
その二冊の関係については、直接的には明示されていない。
読者が読者なりにそれについては「解釈」していくしかない。

しかし、「記憶」というのは、
私たち一人ひとりのなかで
それがどんなに明らかな事実に基づいたものだとしても、
どこかで「偽記憶」になってしまうことを避けられないのではないか。

入沢康夫は、隠岐の島に残る後鳥羽院にまつわる話を
集められるかぎりの伝承されテクストの解読によって
明らかにしようとし、実際、その「偽」「虚」「仮」を
かなり明らかにし得ているところもあるのだが、
そうすればするほどに、そこから、
それらすべてが「偽記憶」として
まるで見えない化け物のようになってしまうところがあるのではないか。
「偽記憶」に収められている詩「海辺の町の思ひ出」に出てくる、
「水平線のあたりにぼんやりと」「たちはだかって」いる
「白い大入道」のように。

  安藤 (・・・)「だが、年齢を重ねるにつれて、こうした記憶もしくは
  偽記憶が私たちの中に次から次へと積み重なり、やがてはそれが私たち自
  身にとって替わる。私たちはもはや透明でうつろな容器のごときものに過
  ぎなくなり、その中には消化されなかった記憶だけがうずたかく盛り上が
  っていて、まわりには、まるで汚物にたかる蠅のように、およそありとあ
  らゆる魑魅魍魎が飛び交っている。そういう妖怪じみたおぞましい存在と
  して、老人は、つまり年を経た記憶の語り手はあるのだ」。
  ・・・
  このイメージの背景を『わが出雲・わが鎮魂』的に種明かしすると、これ
  には落語があるんですよ。落語の「蛇含草」という話です。山のなかで巨
  大な蛇に出会うんですが、そいつが人間を丸呑みにしている。怖いと思っ
  て見ていると、人間を呑んじゃったものだから蛇も胃が重くて、膨れあが
  って息も絶え絶えになっている。そこでその蛇はある草を食べる。そうす
  ると胃の消化を助けたらしく蛇は元気になる。それを見ていたひとが消化
  剤の薬草だと思ってその草を持って帰る。あるとき蕎麦を食え食えと言わ
  れて、大量に蕎麦を食べちゃうんです。それで。こういうときうにこそと
  思って、その草を食べる。いずくんぞ知らん、この草は人間を融かす草だ
  ったわけです。少し経って音がしないので襖を開けてみると。蕎麦の塊が
  羽織を着て座っておりました、ってオチなんです。つまり、「蛇含草」の
  蕎麦のごとく積み重なった記憶があるという発想です。それを内包する人
  間のほうが融けてしまう。

この「蛇含草」のたとえは別としても、
記憶というのは偽記憶であることを避けられず
同様に、語ることも騙ることを
意識するとしないとにかかわらず
避けられないところがあるのではないか。

もちろん、偽記憶であり騙りであることが
それで意味がないとかいうことではなく、
自分が記憶であり記録であり
正しく語っていると思っているということに対して
常にそれらは
「偽」「虚」「仮」なのだということを
自覚的にあることが必要なのではないかということ。

入沢康夫は『かりのそらね』の
「結びのことば」でこう述べている。

  「かり」は「雁」であり また「仮」であり 「借」でもあり
  「そらね」は「空音」であり「虚音」 はたまた「虚言」にさ
  へ通ずると 思つてもよいのではあるまいか