風のメモワール50

新しい自分が見たいのだ


2008.4.10

いよいよペナントレースもはじまって、
日本ハムファンとしても、試合のある日は
どうも気になって、途中経過だけでも知りたくなってしまう。

今年は、ヒルマン監督に替わって梨田監督になったというのもあり
テレビ中継などでもその表情を見るのもひとつの楽しみになっている。
そんな折り、その梨田監督の『戦術眼』という本がでたので
早速読んでみることにした。

その本から、少し。

   変化していく際には、自分が取り組んできたことを一度は
  否定しなければならないケースもある。野球であれ、仕事で
  あれ、セールスポイントや自分で築こうとしたいたことを否
  定するのは難しい。特に私の肩のようなセールスポイントは、
  それでプロへ入れたという意識も持っているだけに、否定す
  ると自分ではなくなるようで怖いのだ。実際、自分のセール
  スポイントに変化を迫られた選手が、「俺はこれでプロに入
  った。それが通用しないのなら仕方がない」と考えて消えて
  いったケースは少なくない。
   しかし、冷静になって考えてみよう。イチローという世界
  最高レベルを誇る選手だって試行錯誤を繰り返し、変化して
  いるのだ。つまり、変化を迫られるということは、生き残る
  チャンスが残されているということでもある。
  (梨田昌孝『戦術眼』ベースボールマガジン社新書009
   2008.4.1.発行/P.133-134)

そういえば、というか、
先日来、気がつくとあれこれ考えていることがある。
それは、ぼくはぼくという限界を超えられるのかどうか、
ということである。

これは、シュタイナーが『自由の哲学』で示唆している
認識の限界はあるのかどうか、という問いかけにも似ているが、
最近は、自分がそれとは知らずにつくっている認識の壁を
どのようにしたら意識できるようになるだろうか、
そしてそれと同時に、逆になぜ自分はいまのような体にはいって、
それなりの認識範囲のなかを生きているのか、
ということが気になって仕方がない。

つまり、自分がいまの自分であることの意味と
その限界を超えるために何が必要かを知りたいということである。
もちろんそれは容易なことではない。
自分を超えるということは、
今の自分をある意味否定することにもなるからである。
人は、多く、いかに自分を正当化できるかを課題に生きているところがある。
いわゆる「自己実現」というのも、そんな願望の充足であることが多い。
しかし、自分がいつまでもそのままの自分であったとして
それでどうしようというのだろう。

河井寛次郎の言葉にたしか
「新しい自分が見たいのだーー仕事する」というのがあった。
まさにそれである。
芸術がポエジーが必要だというのも、まさに
「新しい自分」を見たいがためでもある。
自分にしがみついていては、新しい自分は決してみることができない。
とはいえ、それは自分をしっかり見るということができてはじめて成立する。
自分を見ることができないために、じっとしていられず、
動き回っていても、結局それで新しい自分を見ることはできないだろう。
ひとりでいられないから、みんなで集まるというのも同様である。

新しい自分を見る、というのは
この世界で生きる「チャンス」のひとつだろう。
そんな「眼」をしっかりもつために
自分の限界を超えるための「戦略」や「戦術」をもたなくては、と
あらためて思う昨今である。