先日、岡山の県北にある奈義町現代美術館に出かけた。
館内に入ったところには、
河原のように石が敷き詰められている浅い池のなかに、
彫刻家・宮脇愛子の“うつろひ”という作品が展示してある。
その“うつろひ”を第1作目(1987年)のCDのタイトルにし、
その後の作品集のジャケットに、
宮脇愛子の一連の“うつろひ”シリーズを使っているのが
細川俊夫である。
日本の現代音楽作曲家のなかでは、
武満徹と並んで比較的よく聞いているのが
この細川俊夫の作品で、
今年の1月に発売された第10作目「メモリー」を
昨夜久々じっくりと聞きながら、ライナーノーツも読み返してみた。
私の音楽の根本は、カリグラフィー的な音の線であるが、これを
私は『うた』と呼んでいる。私の音楽の本質は『うた』である。人
はなぜ歌うのだろう。これは人の業であるかもしれない。しかし私
は歌うことなしには生きていけない。私が最も愛するのは、各国の
民謡(フォークソング)であり、それをより高めたドイツのリート
である。それは人間の身体の響きであり、その響きは自然の、宇宙
の響きでもあると思う。なぜなら人も、自然の宇宙の一部であるか
ら。シューベルトの「リート」は、彼の存在の響きであると同時に、
宇宙の響きなのだ。
歌のうちに、生きることの深い「いのち」が感じ取られ、その
「いのち」は個人の「いのち」を超えたより深く広い宇宙へ連なっ
ていく。小さな私の歌が、その私(ego)を溶解させて、宇宙と
一体化するようなエクスタシーの瞬間を、私は音楽に求めている。
(細川俊夫作品集 音宇宙X:メモリー ライナーノーツより)
このアルバムが「メモリー」と名づけられているのは、
収められている作品には、細川俊夫が尊敬しているという
「ユン・イサンと武満徹の音楽が、
遠くからこだましてくるのを聴くから」であり、同時に、
「私の音楽の故郷である日本の伝統音楽の、
私の記憶の内での響き(…)を聴くから」であるという。
そして、「私がこれから書こうとする音楽も、
私の心の記憶の海に、深く眠っているに違いない」ともいう。
ぼくのなかにも、「遠くからこだましてくる」さまざまなものがあり、
それを聴きながら、たとえばこうして言葉を書きつけたりもするのだろう。
そして、それはぼくにとってときに「うた」でもある。
ぼくのなかに「遠くからこだましてくる」「うた」、
ぼくのなかに眠っているであろう「うた」・・・。
どんなに稚拙に響くことがあったとしても、
それはたしかに「うた」としかいいようもないものがあると
自分では勝手に思っていたりする。 |