風のメモワール49

生きるための経済学


2008.4.4

ブルータス2008/4/15号は「日本経済入門」。
「経済学者・評論家お断わり」と但し書きがあり、
「この賢者たちに聞きたい日本の未来」とある。
(まあ、そんなに内容的におもしろいものはないけれど・・・)

ぼくは、経済オンチ、というより
投資・運用オンチ、である。
当座とりあえず食っていけて
特に借金とかがなければそれでいいというほうで、
どうして世の中の多くの人が
株やら投資やらに
あれだけたくさんのエネルギーを費やすのかが
いまひとつピンとこないところがある。

いわゆる「経済学」にもそんなに興味はわかない。
なんか、どこか間違えているような気がするからだ。
エンデのように、利子をとっちゃいけない、
とかまでは思わないけれど、
お金でお金をどんどん生み出そうとするようなあり方が
あまりに肥大しすぎるのは、やはり馬鹿げているとしか思えない。

ちょうど、ちょっと面白いこんな本がでた。
◎安富歩『生きるための経済学/<選択の自由>からの脱却』
(NHKブックス1107/2008.3.30発行)

そこでは、抽象的で場所性も希薄な「市場(シジョウ)」ではなく、
具体的な場所をもった「市場(いちば)」からの経済学が提唱されている。
つまり、そうした「市場(シジョウ)」的なあり方は
ある種、「呪縛」であり「足枷」であって、
「私たちが生きる上での障害となっている」というのである。

経済を「市場(シジョウ)」的なあり方でとらえ、
「選択の自由」によって「利己性」を満たそうとばかりする人が
「目指すものは、自分が今持っているものを運用し、
自分の利己心をもっともよく満たす方法を選択し実行することである。
このとき、他者は自分の道具となる」のである。

そうしたときに用いられる「経済学」は
ある意味、死の経済学だともいえるかもしれない。
少なくとも、日々生活のなかで実感できるようなものではない。
しかし、世の中では、賢げな人たちの
「賢い投資」とか「運用」とかの話が充ち満ちていて、
今や、子どものときから、
そうしたことに対する訓練をしたりもするようになった。
そして、もちろん、それらの営為は
かくれてこそこそ、どころか、
ひどく自信に満ちているようにさえ見える。
おそらく自分を「勝ち組」として位置づけようとしているのだろう。
問題は、そこで何に勝って、その実、何に負けているかに
気づけないでいるということなのだろう。

別に貧乏でいる必要はないし、
不安少なく日々を暮らしていくほうがいい。
そして、その不安を解消するだけの「経済」行為は必要だが、
その手段が何でもいいというわけではない。

まあ、早い話、お金でお金を生もうとする以外に、
もっとほかに面白いことはないのだろうか、
という素朴な疑問も当然わいてくる。
いろんなことに興味がでてくれば
そんなことに多くの時間やエネルギーを割くのは
もったいないと思わないのだろうか。
優先順位的にはひどく下位にあるだろうことが
そのように最上位に来てしまうというのは、
やはりどこかでなにかが間違っているように感じてしまうのだ。
お金は大切だけれど、世の中金だ、というわけでもない、
という自然な(今では不自然なのだろうか)感覚が
失われてしまっているというのは、
ある意味、もっとも大きな(魂の)「環境破壊」なのではないだろうか。