風のメモワール48

カラヤンとグールド


2008.3.30

NHK「知るを楽しむ」の4月・5月の「私のこだわり伝」は
「カラヤン/時代のトリックスター(天野祐吉)」と
「グールド/鍵盤のエクスタシー(宮澤淳一)」。
テキストがでていたので出張を利用して早速読む。

このNHKテキストの編集の仕方は、
移動時間1時間程度の電車のなかなどで、読みやすいようにできている。
雑誌と新書のあいのこのような感じで
話を聞いているように、眠くならない程度で軽く読めるのがいい。

さて、カラヤン。
知人が毎月送ってくる近況報告兼クラシック視聴報告でもあるハガキで
そういえば、ここ1年ほど、カラヤン、カラヤンと毎回のように書いてくる。
以前は敬遠していたけれど、じっくり聴いてみるとスゴイ、ということだ。
かなり最近クラシック関連を聴き始めたぼくは、
カラヤンの演奏も映像には正直あまりふれたことがないのでよくわからない。
素直に知人の言葉のままに聴いてみるのもまた良しとも思っている。
ある種の聴き方を身につけるのも大切なことだし、
そのことでしかその聴き方を壊すこともまたできないからだ。

天野祐吉は「複製芸術家としてのカラヤン」ということをいっているが、
その点はちゃんとおさえておく必要があるのだろうというのはわかる。
グールドもそうだが、録音技術の進歩によって、
クラシックを聴く、その聴き方も、ライブだけ、
というのではなくなったということである。
もっとも、最近ではあまりにも音楽がデータ化しているところがあるので、
その分、ライヴの魅力が再認識されているということはいえるのだが、
実際、ぼくにしても音楽をライヴで聴くのは、限られている。
そういえば、小林秀雄の「モオツァルト」にしても、
「わずかばかりのレコオドにわずかばかりのスコア、
それに、決して正確な音を出したがらぬ古びた安物の蓄音機、ーー
何を不服を言うことがあろう。例えば海が黒くなり、空が茜色に染まるごとに、
モオツァルトのポリフォニーが威嚇するように鳴るならば」なのである。

さて、グレン・グールド。
いわゆる「グールド」は「三十丁目スタジオ」で1959年に録音された
「ゴールドベルク変奏曲」で誕生したともいえ、
また1981年に再録音されたものが生前最後の録音になるそうで、
「ゴールドベルク変奏曲」から「ゴールドベルク変奏曲」のあいだが
いわゆる「グールド」なのだが、
ぼくの最初に聴いたグールドも、yuccaからテープでもらった
「ゴールドベルク変奏曲」で、正直、聴いたとたんに引き込まれ、
それをきっかけに、バッハ演奏を中心にグールドの演奏をかなり聴くようになった。
「パルティータ」「イギリス組曲」「フランス組曲」「トッカータ」
そしてもちろん「平均律」。
シェーンベルクをはじめて耳にしたのもグールドだったし、
ハイドンを好きになったのも、グールドからだった。

そもそもぼくの「耳」は、クラシック的にできていなくて、
あらゆるジャンルがごちゃまぜになっているような雑多な「耳」で、
ある意味、だからこそグールドの音がすごく自然に入ってきたのかもしれない。
そもそも「クラシックの基準」というのは、いまだにぼくの「耳」には存在しない。

テキスト(宮澤淳一)にはこうある。

  とにかくグールドはルール違反です。演奏家本来の役割は共感と感動を
  生み出すことで作曲家と聴き手を結びつける営為だからです。しかし、
  現代芸術のパフォーマンスと考えるなら、違反とは言い切れない。現代
  芸術は、ただ美しければよい、心地よければよい、わけではありません。
  美や心地よさよりも、何かを考えさせる挑発性(メッセージ)が作品に
  こめられていることが大切です。音楽でも作曲の分野ならすでに確立し
  ていた発想ですが、それを演奏に持ち込んだという点で、グールドは画
  期的だったのです。
  また、作曲家よりも演奏家が優位にあるという意味では、グールドとい
  う存在はむしろ、ジャズやロック等のポピュラー音楽でこそ輝く個性で
  はないでしょうか。だとすれば、異端視するよりも、「グールドはクラ
  シック音楽ではない」と考えた方がすっきりします。実際、普段はジャ
  ズやロックに親しみ、クラシック音楽全般には無関心なグールド・ファ
  ンも多い。グールドという芸術家はジャンルを超えた個性なのです。

なるほど。
たしかもグールドを聞き始めた頃、
ぼくは「ジャズやロックに親しみ、クラシック音楽全般には無関心」だった。
そうした現象のなかに、遅ればせながらも、ぼくのいたわけである。

しかし、そこで意識的でありたいと思うのは
「ジャンルを超え」るということ、というか
ジャンルにとらわれすぎるということは面白くないけれど、
その「ジャンルを超え」ることのおもしろさや創造性は
「ジャンル」というふうに分けられたものがあって
それを超えるというところがひとつのポイントにもなるということである。
最初からジャンルのないようなぼくのような「耳」には、
「ジャンル」があって、それを超えるという楽しみが
ある種奪われてしまっているかもしれないのである。

「分かる」というのは、「分ける」ことでしか成立しない。
けれどそれがずっと「分け」られたままだとどこにもいけなくなる。
その「分ける」こととそれを超えることの往還のプロセスというのが
そしてその往還が螺旋状に展開していくというのが
「遊戯」としては大変に面白いのではないかと思うのだ。