風のメモワール46

鉄道歴史パーク


2008.3.6

先日、出張で愛媛県のJR西条駅を利用することになったので、
その駅のすぐ横に開館した『鉄道歴史パークin SAIJO』の
十河信二記念館と四国鉄道文化館に入ってみた。
十河信二というのは、西条市の市長であり、
また第4代国鉄総裁でもあった人。

四国鉄道文化館には、
昭和39年10月1日に、
東京〜大阪間の開通時に登場した0系新幹線電車と
蒸気機関に替わる主力機関車として
昭和32年に登場したDF形ディーゼル機関車が展示されている。

ぼくは、男の子によく見られるような、
鉄道マニアだとか
車マニアだとかいうのとは無縁だったというのもあり、
とくに感慨めいたものや鉄道への哀愁などもないのだが、
このディーゼル機関車に替わる前の
蒸気機関車がまだ現役で運転されている頃に
その蒸気機関車に乗った記憶が蘇ってきたのを面白く思った。
そういえば、展示されているDF形ディーゼル機関車は、
昭和58年まで走っていたそうなのもあって、記憶に残っている。

ぼくが生まれたのは昭和33年なので、
子供の頃にちょうど蒸気機関車からディーゼル機関車に変わり、
新幹線がどんどん進化していく時期にあたっている。

考えてみれば、パソコンだって、
ぼくの大学の頃は、情報処理の授業もまだパンチカードで、
ようやく卒業する頃、30万円近くするにもかかわらず、
日本語処理はカタカナのみのモノクロ画面のパソコンで
記憶媒体は、カセットテープだったものがようやく出始めていた。
友人が、ゲーム会社に就職した影響から、
あまり使えないにもかかわらず、
そうした高いパソコンを購入したことを思い出す。

それから30年後の今や、ネットもあたりまえになり、
広告の仕事も、パソコンなくしてはできなくなっている。
それを考えれば、時代の変化というのはものすごい。
パソコンに比べれば、鉄道はまだしもスローペースの変化かもしれない。
少なくとも、使うための壁というか敷居が立ちふさがったりもしない。

しかし、ぼくの歳にしてみても、
ものすごく変化の激しかったことを思えば、
高齢の方のとまどいはいかばかりかと思う。
ぼくのほうは、とまどうことはなく、
新しいもの好きでどんどん取り入れていくほうなのだけれど、
そういうのでない人にとっては、けっこうキツイかもしれない。

こうした時代の変化というのは、否応ないものがあって、
科学主義的な発想があたりまえになるのも仕方なさそうだけれど、
それにしても、人の精神の発達がそれに伴わないのは困ったことだ。
むしろ、ぼーっとして時代に流されていくとどんどん退行さえしていく。
情報が多いということは、その処理能力を超えた人にとっては、
それ以外の力をどんどん奪っていく。
そしてどんどん自分で考えることや創造することから遠ざかっていく。
かつてあたりまえのように身の回りにあった自然感覚や生活感覚も
ほとんど身につかなくなってしまう。

おそらく今生まれている人は
こうした変化を想定して生まれてきているのだろうし、
変化の時代でなければ得られない経験もたくさんあるのだろうが、
こんな時代に、統合された認識を得るということは
可能性と同時に大きな困難も抱えてしまうのだろう。
シュタイナーの精神科学の必要性も、
そうした背景に置いてみたときに、
その重要性があらためて再認識されるようにも思う。

ちなみに、シュタイナーは鉄道員の子供として生まれた。