風のメモワール45

初恋のきた道と映画を観ること


2008.2.27

「ほぼ日」の
吉本由美さんの「するめ映画館」別館
「初恋のきた道」で、泣きましょう。
で、糸井重里との話を読んで(現在まだ連載途中)
映画が観みたくなった。
http://www.1101.com/hatsukoi/index.html

この映画は、チャン・イーモウ監督、
チャン・ツィイー主演で
2000年に米中合作でつくられた映画。
チャン・イーモウといえば、
最近では、高倉健主演の『単騎、千里を走る。』が
話題になったりもした。

涙腺のゆるくなりがちな昨今、
その美しい景色と
たぶだぶ気味の服を着たチャン・ツィイーの走る姿などに、
涙腺はゆるみっぱなしだった。

本を読んで涙を流すこともあるけれど、
3Sに映画が入っているように
物語性のある映像や色彩が喚起する
ある種の直接的な感覚や感情というのは、
危険なまでの影響を及ぼすことができる。

映画を観るまえに、
その危険性をあらかじめ意識してから、
というような無粋なことはもちろんしないけれど、
涙を流しながらも、
あとでその涙を流させたのは
いったい何だったのだろうと思うことは
それなりに大切なことだと思う。

この「初恋のきた道」についてのあれこれは
吉本由美+糸井重里の話におまかせするとするが、
人を泣かせる物語とその映像には
それなりによく考えられたしかけがある。

もちろん、そのしかけは
作為というだけにはとどまらないものもあれば、
作為を超えたものとして
影響を与えるようなものもあるが、
それをあれこれ考えてみるのも
また映画の楽しみのひとつのように思う。

そして、そうしたさまざまなレベルのしかけに
自分がどのように反応したか、しがちであるか、
というのを分析してみると
自分の危うさのひとつもまた見えてくることもあって
面白いのではないかという気もする。

しかし、人はやはり物語を必要とするのだな、と
映画を観て心動かされると実感される。

つかのま映画にはいりこんでしまうにせよ
一生を通じて自分の物語を演じるにせよ
また生死を超えて宇宙的に自らを認識するにせよ
そして胡蝶の夢のように夢か現かわからなくなるにせよ
人は物語を呼吸して存在している。

そして、人は自分が確かだと思っている物語が壊れるとき
大きな痛みを感じ、自らを破壊したり、
逆に再創造へと向かったりする。