風のメモワール41

入沢康夫・蜂飼耳・小池昌代


2008.2.3

生まれてはじめて詩集を
(アンソロジーでもなく選集でもなく刊行されたばかりの新刊)
買ったのは、
入沢康夫の『「月」そのほかの詩』だった。

今、ひさしぶりに函から取り出してみてみると
1977年4月15日発行とある。
30年以上前のことになる。
価格は1800円。
いまでもそうだが、その当時、決して安くはない。
アルバイト料を使って、どうしようかと思いながら
どきどきしながらレジに持っていったはずである。
(そのときのことはさすがによく覚えていないけれど)
大きな文字で、20篇ほどの詩が
ぜいたくにゆったりと収められている薄い一冊。

そのとき以来、入沢康夫の詩とは長いつきあいになる。
新しい詩集は、『かりのそらね』。
詩集には詩集でしか味わえない装丁の妙があって、
「現代詩手帳」に連載されていた「偽記憶」と
長篇詩「かはづ鳴く池の方へ」が
二冊になって、
あの『わが出雲・わが鎮魂』への回答(ということらしいが)として
合わせ鏡のようになって「かりのそらね」という詩集になっている。
今も、新しい入沢康夫の詩集を手にして読むのは
どきどきする体験である。
ちょっとぜいたくで神秘的な。

はじめて買った『「月」そのほかの詩』のなかには
「私は書く(ある校訂記録)」という
「谷川俊太郎へ」と付されている詩があって
その詩を読んだとき、
一気にぼくのなかの意識が
重層的な世界に解き放たれた記憶がある。
それはこんな、一見なんでもない感じの詩である。

  私は 私は と書いてしばらくペンを休め と書き 私は
  それを日本の縦線で消し と私は と私は 書きかけてや
  め やめといふ字を黒く塗りつぶしてから と書いて 海
  は と私は書き つづけて 黄いろくて と書こうとする
  が一字も書かないうちに いやになつて またと書くと
  私は 私は といふ字をすべて消さう と思つたが と書
  き と書いて ・・・・

最後にこの詩は、すべて消されて終わるのだが、
そのすべて消されたと書かれた詩が詩になっている。

これを読む前と後とでは
決定的に書くこと読むこと、
そして自分の意識そのもののあり方が
幾重にも幾重にも織られ始めることになった。
ある意味、それは自覚的精神分裂病のような感じではあったのだけれど、
そこからしか始まり得ない、必要不可欠な何か、なのである、それは。

ところで、少し前に
蜂飼耳の『隠す葉』という、
これもちょっとおもしろい装丁の詩集がでて、
同時に、はじめての小説も刊行されたばかりである。
そういえば、ルオーの絵に文書をつけた
『夜の絵本/ルオーの贈り物』も楽しい(というか静かに響いてくる)。

今、女性詩人の、この蜂飼耳と
この蜂飼耳と同じく詩人であり小説も書いている
小池昌代という人の言葉が、
ぼくにはとても新鮮に響いてくる。
ぼくのなかでは、旬の二人である。

言葉への重層的な自覚と同時に
それを超えて、
言葉の肉体の思考や感情や意志が圧倒的に
(暴力的にではなく静かな浸透と同時にやわらかな抱擁・包容として)
ぼくへとたしかな仕方で届いてくる。

ポエジーの幸福な時間である。