風のメモワール40

佐藤優『国家論』


2008.2.3

佐藤優が旬である。
この人の魅力はどこにあるんだろうかと考えてみる。

やはり、まずテーマである。
日本人の多くが脳天気のままである
(ぼくもかなりの脳天気なのだけれど)
「インテリジェンス(特殊情報活動)」について
生々しい現実を教えてくれる。

それとやはり、自分の姿勢を
自分に向ける厳しい視線をふまえながら、
理想と現実を双方にしっかりと目を向け、
実際に立つことの可能な場所を示唆してくれることも大きい。
理想とはというだけ、現実とはこうだだけ、
というものはおびただしくあるのだけれど、
キリスト教神学やマルクス、ロシアなどなど、
ここまで岩のような地盤をつくった上で
その背景をふまえて生々しく語る熱は、やはりただものではないのである。

昨年暮れにでた
佐藤優『国家論/日本社会をどう強化するか』(NHKブックス)を読む。
(読もうとおもったらすぐに売れてしまっていて、ようやく増刷分がでた)
帯に「国家の暴走に対抗する!」とある。
ここでの議論の前提は、国家は暴力装置であるということ。
そして国家とはある意味、官僚でもある。
それはいい悪いではなく、現実にそうであって、
そういうなかで、「社会」を強化するためには何が必要なのかが
「民族」や「ナショナリズム」の問題をふまえながら、
「資本論」「宇野経済学」「世界共和国へ(柄谷行人)」、
「否定神学」「バルト神学」などなどから、ダイナミックに検討される。
こうしたテーマが一気読みの快感のなかで、
どきどきしながら説得力をもって読み進められるというのは
佐藤優の独壇場だろう。

少し、「終章」あたりから引用してみることにする。
あたりまえのような結論ではあるが、
こうしたことを近代の歴史をふまえながら語れる筆力はやはりスゴイ。

   人間がいかに真摯に愛を原理とする平和社会を作ろうとしても、それは実現
  できないでしょう。そのため、究極なものを追求する人は絶望してしまうか、
  あるいは「究極的なものなど実は幻想で存在しないのだ、だから何をやっても
  許される」というシニシズム(冷笑主義)に陥ってしまいます。
   ここで重要なのは、人間が究極的なものに至るためには、究極以前のものを
  通じる道しかないということです。ただし、究極以前のものが支配する領域で、
  努力を積み重ねたからといって、究極的なものに移行できるわけでもありませ
  ん。究極的なものに至るには外部からの力、日本的な伝統で言うならば、縁の
  ようなものが必要です。この縁のことをキリスト教神学では啓示と言っている
  のです。国家も社会もしょせんは究極以前のことがらです。しかし、不完全で
  あるがゆえに重要なのです。なぜなら不完全なものを、われわれの努力によっ
  て究極的なものに少しだけでも近づけていくことが可能だからです。
   現状を見ると、国家は過去に比べその暴力性を剥き出しにしている。これは
  国家が強くなっている証拠ではありません。逆です。国家は弱くなれば弱くな
  るほど剥き出しの暴力に依存するようになるのです。日本国家をこのような危
  機的状況から救い出さなくてはなりません。そうでないと、何よりも暴力性を
  強めた国家によって、この国に住んでいるわれわれーー日本人でも外国人でも
  ーーが被害を被るからです。では、どうすれば国家は強くなるのか。本書をこ
  こまで読んだ方はお分かりだと思いますが、まず、社会を強化することです。
  社会の強化とは、人間がお互いに尊敬しあい、協力しあうことによって実現さ
  れます。新自由主義政策の結果、一人ひとりがバラバラにされ、他者や外部世
  界に対する想像力が弱っている現状を、根本的に立て直さねばなりません。
  「そんなことを言っても無理だよ」という声が聞こえてくるのは折り込み済み
  です。そう、確かに不可能なのだと思います。しかし、不可能であるがゆえに
  その可能性を追求しなくてはならない。そのために社会にとって必要なのは、
  社会工学的によく構築された理論であるとか、あるいは「親を愛せ、国家を愛
  せ、郷土を愛せ」というような法律を作ることではありません。その前に必要
  とされる重要なことがあります。
   私の考えでは、大きな夢をもつことです。会社の社長になりたい、中央官庁
  の事務次官になりたい、あるいは、内閣総理大臣になるたいなどの夢はスケー
  ルが小さすぎます。貧困がまったく存在しない社会、絶対に戦争がない世界、
  これが私のいう大きな夢、すなわち「究極のもの」です。こういう夢を実現す
  ることに満足を感じる、言い換えるならば、大きな、とてつもなく大きな夢が
  エゴとなるような人が増えれば社会は強化されると私は考えます。