風のメモワール38

大地性と父殺し


2008.1.30

NHK「知るを楽しむ」の2月〜3月の月曜日のテキスト
亀山郁夫『悲劇のロシア』がおもしろい。
あっというまに、読み終えてしまった。
ドストエフスキーを中心に、マヤコフスキー、ブルガーゴフ、
エイゼンシテイン、ショスタコーヴィチがとりあげられている。

亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』は、昨年ずいぶん話題になり、
ぼくもそれにのってか、いちど読んだはずなのに、
すっかり忘れていた話をはじめて読むように読み進めることになった。

今回のテキストはドストエフスキーをのぞけば、
スターリン独裁時代を背景にした芸術家がとりあげられているが、
基本的なテーマは、ロシアの「霊性」を背景にした政治と芸術の戦いであり、
そこに、「父殺し」のテーマがどこかで響いているように感じた。
いわば、大地性と父殺しの相克とでもいおうか。

ドストエフスキーの作品で「大地」が印象的にクローズアップされるのは
『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』だろう。

『罪と罰』では、殺人を犯したラスコーリニコフが
「自分が汚した大地に口づけしなさい」というソーニャの勧めで
センナヤ広場に出て大地に口づけする。
『カラマーゾフの兄弟』では、アリョーシャが
ゾシマ長老の棺のそばで神父の朗読する「ガリラヤのカナ」の奇跡をきき
長老を夢に見、歓喜に満たされて大地にひれふし、
涙を流し大地に口づけする。

おそらく、ロシアにおいて、
この「大地」というのは特別な霊性をもったもののようである。
それは、シュタイナーがそのドイツ語版の出版にもかかわったらしい
ソロヴィヨフの「ソフィア」とも深く関係している。

しかし、ドストエフスキーは、執拗なまでに、
「父殺し」的なテーマにこだわっているように見える。
この「父殺し」と「大地性」は深く関わっているのだろう。
ある意味、自我と聖杯ということでもあるのかもしれない。

亀山郁夫が題している『悲劇のロシア』だが、
この本の全体をこのように記し紹介している。

  前半の4回は、19世紀の作家ドストエフスキーを中心に、人間の
  「傲慢」をキーワードとしつつ、ロシアの悲劇を描き出していく。
  ここでいうロシアの悲劇とは、長い隷従にあって、狂おしいほど超
  越的な精神性に憧れる人々の悲劇である。そして後半の4回は、20
  世紀ソヴィエトに生きた4人の芸術家とスターリン権力の闘いを描
  き出す。スターリンによる大テロルが生み落とした受難の強度にお
  いて、創造的知識人と民衆は深く一体化していた。彼らは、みな、
  権力へのそれぞれの献身において破滅した人々であった。

単純に図式化するのはよくないけれど、
ロシアにおける父と権力、大地と精神性の同居が
ある種の悲劇を生み出していったということもできるかもしれない。

ところで、日本はどうだと考えてみると、
日本は、河合隼雄さんのいうように「中空構造」をなしていて
ロシアのような「父」は存在しないまま
その中空構造にさまざまなものがその都度入り込みながら
ある種の大地性のもとにある種夢のようにまどろんでいる、
という感じなのかもしれない。
問題はその空洞に何が入るかで、
物質主義がはいるとアーリマン化するように、
ある種の「権威」の「型」に押されてそこに型押しができてしまう。
逆にいえば、型押しされないと何もでてこないところもあったりする。
それもまた、「悲劇」だというふうにとらえることもできるかもしれない。
それはある種、「父」不在ゆえの悲劇だともいえるのだろう。