「すばる」に連載されている吉田秀和のエッセイが
『永遠の故郷ーー夜』として、来月の初めに刊行される。
連載1回目にあたる2006年7月号で
「《月の光》ーー堀江敏幸にーー」と題されていたこともあり、
発売を前に、『青春と読書』に
「音楽の恵みと宿命」と題された対談が掲載されている。
再び活動をはじめた吉田秀和の言葉を読むと、
なにかを超えた自由さと静かな光を感じることができる。
これは常に自分(耳や眼や感受性やさまざまな)を
磨き続けてきた人だけに可能になるものなのだろう。
「美」を享受するということも
ただ外に「美」があって
それを食するようなものとはまったく違うのがわかる。
「美」を享受できるたけには、
「それ相応の訓練と、過程に対する敬意が必要」なのである。
それを勘違いすると、「恵み」を得ることはできない。
吉田 これは芸術にはとても大事なことだと思うけれどーーたとえば、
ひとつの曲を何度も聴き込んでくと、ほかのものにはない光があること
がわかってくる。それを結果として「美」と呼ぶんだけどね。だから、
美は美しくないんだ。美しいとは限らないんだ。
堀江 美が副産物であることを享受するためには、音楽を聴くのであれ、
文学を読むのであれ、やはりそれ相応の訓練と、過程に対する敬意が必
要なんでしょうね。
吉田 たとえば宝石は、あの宝石の形がそのまま自然のなかにあるわけ
じゃないんですね。原石というのははるかに大きくて不純なものです。
それを徹底的に磨いていくことによってはじめて宝石になる。
(吉田秀和×堀江敏幸「音楽の恵みと宿命」
『青春と読書』Feb.2008 所収)
「恵み」を得ることができるためには
みずからがその器になることが不可欠になる。
どんなに美しいバッハのコラールが響いてきても
それを聴く耳がなければ空しい。
禅でいう「そっ啄同事」という言葉があるが、
「恵み」を得るということはそういうことでもあるのだろう。
自由であること、静かな光を伴っていることも、
そうした「恵み」のひとつなのだろうという気がする。
歳を経ていくことでしか得られないであろう大いなる「恵み」である。 |