風のメモワール37

吉田秀和×堀江敏幸


2008.1.29

「すばる」に連載されている吉田秀和のエッセイが
『永遠の故郷ーー夜』として、来月の初めに刊行される。
連載1回目にあたる2006年7月号で
「《月の光》ーー堀江敏幸にーー」と題されていたこともあり、
発売を前に、『青春と読書』に
「音楽の恵みと宿命」と題された対談が掲載されている。

再び活動をはじめた吉田秀和の言葉を読むと、
なにかを超えた自由さと静かな光を感じることができる。
これは常に自分(耳や眼や感受性やさまざまな)を
磨き続けてきた人だけに可能になるものなのだろう。

「美」を享受するということも
ただ外に「美」があって
それを食するようなものとはまったく違うのがわかる。
「美」を享受できるたけには、
「それ相応の訓練と、過程に対する敬意が必要」なのである。
それを勘違いすると、「恵み」を得ることはできない。

  吉田 これは芸術にはとても大事なことだと思うけれどーーたとえば、
  ひとつの曲を何度も聴き込んでくと、ほかのものにはない光があること
  がわかってくる。それを結果として「美」と呼ぶんだけどね。だから、
  美は美しくないんだ。美しいとは限らないんだ。
  堀江 美が副産物であることを享受するためには、音楽を聴くのであれ、
  文学を読むのであれ、やはりそれ相応の訓練と、過程に対する敬意が必
  要なんでしょうね。
  吉田 たとえば宝石は、あの宝石の形がそのまま自然のなかにあるわけ
  じゃないんですね。原石というのははるかに大きくて不純なものです。
  それを徹底的に磨いていくことによってはじめて宝石になる。
  (吉田秀和×堀江敏幸「音楽の恵みと宿命」
   『青春と読書』Feb.2008 所収)

「恵み」を得ることができるためには
みずからがその器になることが不可欠になる。
どんなに美しいバッハのコラールが響いてきても
それを聴く耳がなければ空しい。
禅でいう「そっ啄同事」という言葉があるが、
「恵み」を得るということはそういうことでもあるのだろう。
自由であること、静かな光を伴っていることも、
そうした「恵み」のひとつなのだろうという気がする。
歳を経ていくことでしか得られないであろう大いなる「恵み」である。