風のメモワール36

こんにちは 河合隼雄さん


2008.1.10

そういえば、昨年は、
河合隼雄さんの亡くなった年でもあった。
こんなにふところの深いひとが
同時代にいたということは驚きに近い。
河合隼雄さんは今どうしているんだろう。
そんなことを思う。
あの笑顔をさらにひろげて
あらたな仕事をはじめているのかもしれない。
ひょっとしたら時代そのものの病に
耳を傾けようとしているのかもしれない。

新潮社からでている『考える人』の2008年冬号の特集は
『さようなら、こんにちは 河合隼雄さん』。
たしかに、「さようなら」だけれど、
「こんにちは」なのだ。
これからがたいせつ。

この特集の最初のほうに、小川洋子との未発表対談
「生きるとは自分の物語を作ること」というのがあって、
そのなかで、西洋のアイヒマンもシンドラー社の社長も
泣き崩れたり、誤ったりしたら、人格が崩壊してしまうのに対して、
それに対して、日本人は泣き崩れても誤っても
ちゃんと人格がある、という河合隼雄さんの話があって興味深く思った。

西洋と日本における自我というか人格の比較、
とかいうのも面白いのだけれど、それはともかくとして、
ぼくの人格が崩壊してしまうようなことがあるとして
(たいした人格でもないけれど、いちおうあるとして)
それはどういうことが起これば、
崩壊してしまうことがあるのだろうということをふと思った。
人格の崩壊、までいかないとしても、
かなり危ない状態にまでキレてしまう、というのでもいい。
西洋のように、自分の誤りを認めたり、泣き崩れたりしても、
おそらくは致命的な崩壊にはならないような気もする。
(が、もちろんなってみないとわからない)
だからといって、なんか、集合的なところに逃げ込んだり、
というのもまずないだろうと思う。
どこかに逃げないということもないだろう、
おそらくぼくにはぼくなりの逃げる場所のようなものを
どこかに持っているという気もしている。
ある意味、河合隼雄さんのいう「物語」のようなもの。

その「物語」はどんなだろうと思いを馳せる。
もちろん、だれにもいわないけれど・・・。
ぼくにはぼくのだけの「愛」の物語がある・・・のだろうから。

ところで、久しぶりに読んでいる『考える人』のなかで
連載されていることに、今回はじめてのように気づいたのが
おーなり由子さんの「みちくさ絵本」。

「毛布」というタイトルで、
「風のない しずかな冬の夜」
「つめたい夜の窓の向こうで」
「夜の空が 白く凍っていく音」を耳にし
「毛布といっしょに 女の子も 目がさめ」る話。

そういえば、小さな頃、
冬の寒い静かな夜、
しんとしたなかで過ぎていく不思議な時間を
過ごしたことがあることを思い出した。

いまでも、冬の寒い静かな夜、
暗いなかで耳を澄ましていると、
その時間のなかにとけ込んでしまうような、
そんな気持ちになることがある。
おそらくそうした時間のなかにも
ぼくのなにがしかの「物語」が
凍った夜の結晶のように光っているのかもしれない。

・・・おーなり由子さんの絵本、なかなかいいです。