風のメモワール31

古川日出男の朗読


2007.12.11

coyote No.24の「カタリコ」のコーナー
(大竹昭子のナビゲーターでいろんなジャンルの「表現者」を招き
自著を朗読してもらうというコーナー)で
古川日出男が登場していた。
(古川日出男には、あの名作『アラビアの夜の種族』などの作品がある。
なかなかの表現者というか、すごいパワーのありそうな作家である)

ちょうど、「新潮」2008年1月号に
古川日出男の選・朗読による「詩聖/詩声 日本近現代名詩選」という
朗読CDが特別付録としてつけられていたので、
(そのなかに、西脇順三郎やら吉岡実やら吉増剛造やらも入っているのだ!)
オマケ好きなぼくは興味を引かれて、
騙されたと思って聴いてみようと思ったわけだが、
(声の質そのものが好きだというのではないのだけれど)
これがなかなかのもので、思わず引き込まれてしまうことになった。
吉岡実の「わが馬ニコルスの思い出」などは、
いっしょになって「わが馬ニコルス!」と叫んでしまうほどだった。
西脇順三郎の作品も、よくここまで朗読できたな、と深く感心してしまうほど。

ぼくは朗読を聴くのが好きなほうで、
CDになっている朗読作品などもわりとよく聴く。
2つあるi-Podのうちの一つには、落語と朗読を20ギガ分が
すっかりうまってしまうほど詰め込んでいる。
小説の朗読、詩の朗読、和歌や漢詩の朗読、インタビュー音源など、
気に入ったものはまるで音楽のように繰り返し繰り返し聴く。
(武満徹へのインタビュー音源などもぼくの宝物のひとつである)

最近気に入ったものに、奈良岡朋子の朗読する「白洲正子の世界」がある。
奈良岡朋子の声がぼくはとても気に入っているのだけれど、
その朗読テープが見つからずにいたのを最近見つけたので、
早速聴いてみることにしたわけである。
予想に違わず、深く、説得力のあるその声。
声の木理に不思議な快感をさえ覚えてしまう。

朗読を聴くとき、
語られる内容よりもその声そのものに惹かれてしまうことが多い。
語られる言葉は、ほとんど音楽のようになって、
内容のほうはどこかにいってしまって気にならないことさえある。
言葉、言葉、言葉・・・・ならぬ、声、声、声・・・である。
実際、ヴォーカルを聴いているとき、
歌詞などは単語かそれに近いレベル以外は
ほとんど聞き取れない、というか、
どうでもよくなってしまうことは多いものだ。
歌詞などはろくに聴いていない。
そのときに大切なのは、やはり声そのものの魅力。

なので、気に入らない声だと、
どんなにすばらしい技術や表現力などをもっていたとしても、
やはり、たとえば嫌いな食べ物は好きになれないように、好きにはなれない。
価値を認めないとかいうのではなく、単純に聴く気になれない。

だから、かどうか知らないけれど、
ぼくは疲れてくると、声が死にそうになってしまうことがある。
実際に声が出なくなってくるのである。
これは辛いが、おそらくそのときぼくは瀕死の状態なのだろう。
だから、自分の声をだしてみると、自分の状態はわりとすぐにわかる。

声は目には見えないけれど、
ある種のかたちをもっていて、
ある声を聴くとある種のかたちが浮かび上がってきて、
それがさまざまな形に変化していくイメージがあって、
ぼくにはそれがかなりリアルなものとして迫ってくるところがあるのだ。
だから、自分の声が死ねば、
自分もほとんど死んだかたちになってしまうわけである。

それはともかく、最初のネタに戻ると、
古川日出男の詩の朗読は、
ぼくがこれまでもっていた「朗読」の世界を
ずいぶん威勢のいい、とても自由なものへと変容させてくれた。
本誌は本誌としていい作品や記事がたくさんあって楽しめるが、
CDだけでも買いではないかと思う。