風のメモワール25

Suffering is optional


2007.10.16

  兄に教わった文句を、走り始めて以来ずっと、レース中に頭の
  中で反芻しているというランナーがいた。Pain is inevitable.
  Suffering is optional.それが彼のマントらだった。正確なニュ
  アンスは日本語に訳しにくいのだが、あえてごく簡単に訳せば、
  「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」
  ということになる。たとえば走っていて「ああ、きつい、もう
  駄目だ」と思ったとして、「きつい」というのは避けようのな
  い事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委
  ねられていることである。この言葉は、マラソンという競技の
  いちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。
  (村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』
   文藝春秋 2007.10.15.発行 P.3-4)

ぼくはほとんど初期から村上春樹を読んでいるが、
村上春樹のように走ろうと思ったことはまずない。

とはいえ、自分でもなぜかわからないのだが、
そして走ることに自分は絶対向いてないと思うのだが、
小さい頃から、マラソン(中継)を見るのが好きだ。

好きというのとは違うかもしれない、
走っている人を見ることで
それでどうなるものでもないのだけれど、
42.195キロもの長い距離をなぜ走る気になるのかが
気になって仕方がないところがあるのだ。

気になって仕方がないところのひとつが、
この引用にあるところなのかもしれないな、と
この文章を読みながら少しだけ思った。

たしかに、痛いことを痛くないことにすることはできないが、
苦しいことを苦しくしないことにすることはできる。
苦しいといえば、四苦八苦がその代表だけれど、
たしかに、生老病死にしても、
それを苦しいかどうか決めるのは、optionalだといえる。

生きること、老いること、病気になること、死ぬこと、
それらすべては、「ああ、きつい、もう駄目だ」と思うためには
とてもふさわしいことばかりである。
でも、そういうとらえかたではなく、
別のとらえかたを勧めたのが釈迦だったわけである。
というか、そういう苦しみから自由になるために
どのようにすればいいかを教えたのが釈迦であり、
ある意味、「ああ、きつい、もう駄目だ」そのものを
愛に変容させたのがイエスだということもできるかもしれない。

たしかに、日々、
「ああ、きつい、もう駄目だ」と思うことはすごく多い。
そう思わない日のほうがめずらしいくらいだ。
なにも、人生はマラソンである、
などということがいいたいわけでもないのだけれど、
「ああ、きつい、もう駄目だ」と思うときに、
Pain is inevitable.だけれども、
Suffering is optional.なのだ
というマントらを唱えてみるのも
それなりの処方箋になるのかもしれないと思い、
忘れないうちにメモしてみることにした。