風のメモワール24

忠臣蔵から


2007.10.11

   事件は、極くつまらぬ事から起こった二人の武士の喧嘩に始まり、
  決着のつかなかったところを、人数を殖やした大喧嘩で始末をつけた
  というだけの事だ。喧嘩という言葉は、大石内蔵助の使った言葉で、
  たかが喧嘩に過ぎぬ、と彼は「浅野内匠頭家来向上」で明言している。
  喧嘩が起こったくらいで、社会に変動などありようがない。為に、誰
  の暮らし向きも変わりはしなかったのである。大事なのは、一週間も
  しないうちに、事を扱った芝居が現れた、当時の知識階級の代表者達
  も、一斉に、事件を論評した事だ。誰も彼も、義挙を賛美したと思う
  のは間違いで、知行欲しさのプロパガンダに過ぎぬと現代風の議論も、
  いくつかあった。事件の性質の分析は、当時も既にかなり厄介なもの
  だったのである。たかが喧嘩に過ぎぬ、と内蔵助は言ったが、但し自
  分としては黙し難い考えの開陳があったと断っている。しかし、歴史
  家が、たかが喧嘩に過ぎなかったと言い去るなら、美術家が、光琳の
  「かきつばた」は、たかが屏風に過ぎぬというに等しいだろう。事件
  の力は、当初から偏にその意味にあった。意味がなければ、事件は無
  かったのである。
  (小林秀雄『考えるヒント2』文春文庫/P.11-12)

忠臣蔵そのものに関心をもったことはあまりない。
なので、あまり忠臣蔵についてのものを読む気になれないでいる。
芝居などもまた同様である。
今回、活字の大きい『考えるヒント2』が出て、
その最初の章が「忠臣蔵」だったので、読んでみることにした。

そういえば、忠臣蔵そのものには関心をもてなかったとしても、
なぜ日本人の多くが事件の直後から現代まで、
これほどなぜ関心を寄せているかということは
とても不思議に思ってきた。

忠臣蔵にかぎらず、
世の中の多くのこと(事件)は、
その事件そのものはどうでもいいと思っていても、
それに対する大勢の反応の仕方については、
なぜそんなにみんなが関心を寄せるのだろうと思うことは多い。

マスコミで過剰にとりあげられる多くの事件は、
ほんとうにどうでもよさそうなことがたくさんあるのに、
なぜわざわざそんなささいなことをとりあげるのか
疑問に思えてくるようなことはよくある。
芸能人のさまざまなスキャンダルなどもそうである。

しかしそこで重要なことは、というか、
考えてみなければならないことというのは、
なぜ人はそのようなことに過剰なまでに関心を寄せるのか、
ということのほうだろう。
そのことは、見過ごすことのできない大事だといえる。
実際、その行動の仕方そのものには、意味がある。
「意味がなければ事件は無かった」ように、
受け取る者にとって意味がなければ、関心など起こりはしないのだから。
そういう意味では、「たかが○○に過ぎぬ」とはいえないのだろう。
たとえ「○○」が実際、くだらないことであるとしても。

人が群れることにしても、
群れることそのものは愚かで馬鹿馬鹿しいことだとしても、
なぜそうまでして群れざるをえないのか、ということには
しっかり目を向けなければならないわけである。
なぜ人は「考える」ということをしないか、にしても
なぜ考えようとしないのかは大変に重要な問題である。

そう考えてみれば、
世の中というのは、
ほんとうにくだらないことであったとしても、
それなりに興味深いことばかりだといえるのかもしれない。
もちろん、そればかりに目を向けるのもなんだが、
そういうことはなにがしかこちらにも影響してくることが多いもので、
ただ馬鹿らしいと思ってうんざりするよりも、
そうしたことに目を向けてみるほうがよほど得るものがあるように思う。

そういうことで、やはり忠臣蔵なるものにも、
そろそろ目を配ってみようかとおもった次第。