風のメモワール22

『21世紀少年』から


2007.10.4

浦沢直樹の『21世紀少年』が完結した。

全22巻に、さらに上下巻が加わっているように、ずいぶん長かった。
途中、筋がよくわからなくなったりで、なんかどうでもよくなったりもしたけれど、
せっかくずいぶんつきあってきたので、途中で放るのももったいない気がして、
最後までつきあってしまうことになった。

読み終えて、いったいこの『21世紀少年』っていうのは
なんなんだろうとあらためて考えてみたところ、
「郷愁」と「後悔」、そして「過去の清算」・・・
とでもいったところだろうか。

とりかえしのつかない過去があって、
半ばそれを忘れてしまっていたりもするのだけれど、
それがまるで、カオス理論のバタフライ効果のように、
なんらかのかたちで顕在化してきたことがわかったとき、
その最初のバタフライのそよぎを必死で思い出そうとしたり、
顕在化したことをなんとかできないかと頑張ったり・・・。

そんななかで、とりかえしのつかない過去は
また同時にかぎりない郷愁でもあって、
それらがいまの自分をつくっていることも痛切に感じたりもする。

つまり、郷愁と後悔というのは
まるでダブルバインド状態にあるワンセットで、
過去を清算するといっても、
それがセットになって迫ってくる苦しさがそこにはあるわけである。

そしてもし、過去のある時点に戻ることができて、
「しなかったらよかったこと」を消去することができたとすると、
今のこの、後悔と郷愁の自分そのものをある種消去してしまうことになる。
今のこの自分という人格のペルソナをなんとかしたいと思って、
その仮面をはがしてみたら、顔そのものが成立しなくなるような、そんな矛盾。

そういう意味でいえば、ペルソナをはぎとったとしても、
その下にちゃんと顔をもつことができるまでに、
自分がなんらかのものに変容しておかなければならないわけである。
ずっと知りたかったにもかかわらず、
ずっと知ることができた事実がわかるまでになるためには、
とほうもない準備が必要だということでもある。

それは、ニューエイジ的な安易さのもっているような
自分を棚上げにしたプラス思考などでは太刀打ちができない。
そういうプラス思考のウラにはとほうもないエゴがあるからである。
というのも、プラス思考でなにかを得ようということ自体が、
自分のエゴを強力に守るための対処療法でしかないからである。
「大いなる自分」「本来の自己」というのは、
言うのは易しいけれど、今の自分をなんとかするということなど、
最低条件でしかないわけで、
そういう意味でも、まず重要なのは、
いまここで七転八倒してみるということであるのは間違いない。
そしてそのときにはできるだけ手ぶらでいる必要がある。
つまり、逃避のためのさまざまな言い訳や手段やまやかしなどを
一切借りないでがんばってみるということである。

自分で歩ける分だけを歩いてみること。
自分で考えることのできる分だけを考えてみること。
それら以外のものを擬装に使わないこと。
「郷愁」と「後悔」、そして「過去の清算」というのも、
そのことではじめて、新たな道へとつなげることができるのだろう。
『21世紀少年』という作品とはおそらく関係ないかもしれない、
そんなことを考えながら、この最終巻を読んでみた。