風のメモワール20

中原中也・生誕100年と「華音」


2007.9.23

中原中也の生誕100年であるらしい。
2007年の4月29日でちょうど100年。

「文芸アート誌」と称している
『華音』という季刊の雑誌が面白い特集をしている(Vol.8)。
とくに、町田康、佐々木幹郎、友部正人へのインタビューが楽しい。

メモワールの19に宮沢賢治の朗読を聴くことを書いたが、
中原中也の朗読を聴く機会を多くもっている。
とくにお気に入りは、草野大悟の朗読。
その、ちょっととぼけた感じがなんともいえない。
ぼくも合わせて口ずさみたくなる。

ぼくの耳に妙にのこっているフレーズに
「正午」という詩の「出てくるわ、出てくるわ」
というのがあるのだけれど、
『華音』の町田康へのインタビューのなかにこういうのがある。

  ーー「正午」は晩年、「冬の長門峡」と同じくらいに
  発表されたものです。
   なるほど。だからもう「出てくるわ、出てくるわ」
  とかいって、かなりのっぴきならない状態に。風景を
  見ながらにやにや笑って、いっちゃっている感じです
  ね。もちろんそれは人格においてじゃなくて、詩にお
  いてなっている。
  ーーパンクな状態に(笑)。パンクって、そもそも何
  なのでしょう?
   いろんな言い方ができますけど、「人間はやっぱり
  ひとりなんだ」とわかって、もうにやにや笑うしかな
  くなったときに、人はパンクな状態になると思います。
   中也が感じていた「他人の魂に接近したい」ってい
  う気持ちと、普通の人がなんとなく寂しくて人に甘え
  たいという気持ちは度合いにおいて全然違うと思うの
  ですが、普通の人の場合で言うと、まだ他人に期待し
  ていたりするうちは、それはパンクではない。

この「パンク」っていうのが、
他人に期待しないところで
「人間はやっぱりひとりなんだ」というのがおもしろい。

変な比べ方だけれど、
神秘学とパンクを比べてみると、
ある意味、神秘学はパンクを通過したもののような気がする。
パンクを通過しない神秘学は偽物かもしれない。
けれど、パンクのままで停滞していると
神秘学には至ることができない。

というのも、
神秘学では、
「人間はやっぱりひとりなんだ」を突き抜けて、
「ひとり」の底をぶちぬいて
そこに
「わたしくのなかのみんな」
「みんなのおのおののなかのすべて」を
否応なく見るものでもあるからである。

勘違いしてはいけないだろうことは、
最初から「みんないっしょ」はどこにも行けないということだ。
中也のように、おそらくサラリーマンが
大きなビルからお昼休みにぞろぞろと出てくるのを見て、
「出てくるわ、出てくるわ」といって
「にやにや笑」いながら、いっちゃっているようなところで
「人間はやっぱりひとりなんだ」というものを
否応なく感官に焼き付けてしまうような、
そんなパンクがあってはじめて、
その底をぶち抜く資格ができるのだといってもいいかもしれない。

人間は、ひとりなのだから、
そのおのおののなかのすべてに
目を向けることが可能になるのだから。