風のメモワール19

心象スケツチ


2007.9.22

  これらは二十二箇月の
  過去とかんずる方角から
  紙と鉱質インクをつらね
  (すべてわたくしと明滅し
   みんなが同時に感ずるもの)
  ここまでたもちつづけられた
  かげとひかりのひとくさりづつ
  そのとほりの心象スケツチです
  ・・・
  ただたしかに記録されたこれらのけしきは
  記録されたそのとほりのこのけしきで
  それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
  ある程度まではみんなに共通いたします
  (すべてがわたしくのなかのみんなであるやうに
   みんなのおのおののなかのすべてですから)

ときに朝の鬱をやりすごすために
通勤の車のなかで
詩の朗読に耳を傾けるときがある。

先週、久しぶりに聴いたのは、宮沢賢治詩集。
佐藤慶の朗読。
わりと、最初は淡々とした声ではじまっているが、
次第しだいに味のでてくる声。
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dahではじまる
「原体剣舞連」などはなかなかに聴かせてくれる。

その朗読は『春と修羅』の「序」からはじまっている。
なんど読み返したかわからないほどの「序」。
よくとりあげられてもいるものだが、
その本編もそうだが、
読むたびごとに、まるではじめて読んだときのような
不思議な「心象」を読むぼくのなかにも呼び覚ましてくれる。

今回ぼくのなかにとくに木霊してきたところは
「ただたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで」
というところだった。

宮沢賢治の「春と修羅」に書き綴られた言葉たちは
宮沢賢治の心象に映じた「そのとほりのこのけしき」で
それを読む者の心象のなかにも
「同時に感ずるもの」として
「おのおののなかのすべて」として映じるもの。

「ポエジー」というのは
そうした、
「すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの」
であってはじめて
ポエジーとして成立するものなのだろう。

さて、ぼくのなかに
日々刻々に映じてくる「心象」の数々。
その多くは「虚無」なのかもしれないが、
「ある程度まではみんなに共通」するものなのだろうか・・・。

ぼくは宮沢賢治のように
「心象スケツチ」として「記録」することもしないのだが、
「ポエジー」というのは、
ある種、「記録」することで、
「わたしくのなかのみんな」を
「みんなのおのおののなかのすべて」として
映じせしめようとする営為なのだろうか。