風のメモワール153
アランのプロポ
2009.10.11

森有正がアランを訳しているのを知り、
ここ1ヶ月、森有正と平行して、久々にアランを読んでいる。

『幸福論』が有名だが、
実際のタイトルは『幸福についてのプロポ』。
「プロポ」というのは(「哲学断章」ともいわれるが)
話題であり提案であり提言の断章、といった意味のようだ。
ぼくがここで書いている
「メモワール」だとか「ノート」だとかいうのも
「プロポ」であるといえばいえるかもしれない。

その『幸福論』、以前も目を通したように思うのだが、
今回読んでみて、ずいぶん印象が異なっているのに驚いた。
といか以前は少しも読めていなかったのだろうなと思った。

今回読んだのは神谷幹夫訳の岩波文庫版なのだけれど、
中公クラシックスの『アラン』の最初に置かれている
杉本秀太郎「アランを読む人」の最初にこうある。

   アランはお伽話からバルザック、スタンダール、トルストイの
  小説まで、幼少期から青春時代、分別盛り、そして老年まで、弱
  々しい無力から強壮な独立まで、愚かしさから明知まで、そっく
  りそのままを人間のありのままとして受けとめようとする。そう
  いう人の『幸福論』を十代、二十代の若さで読んだきり、二度と
  この本に手を出さないままではまことに勿体ない。私の知ってい
  る例をいうなら、この本をうすめられたひとりの女子学生は、三
  十分もせぬうちに「おっかないおじさん」とつぶやいたきり本を
  とじた。六十歳に達してもう一度おなじ本を読めばどう思うだろ
  うか。

「そっくりそのままを人間のありのままとして受けとめようとする」
というのは(いまだにできないものの、わかりはじめてはいるか・・・)
若い頃には、とてもじゃないがむずかしいことだろうと思う。

いうまでもなく全部で93の断章からなる『幸福論』の最初は
有名な「名馬ブケファラス」の話である。
幼子が泣いてどうしても泣きやまない、
荒馬がどうしても手なづけられない、
そのほんとうの原因(ピン)を知る必要があるという話。

どの話題も、変に精神主義的というか心の教え的ではなく、
「ピン」という具体的なものが提示されているのが
デカルト(『情念論』など)からつながるフランス風のもので
ぼくにとってはとても新鮮な感じがして楽しく読み進めることができた。
いってしまえば、笑いたければ笑顔をつくる必要がある、
というような話が多いのだけれど、
そういうところというのは、歳を経たほうが
むしろ腑に落ちるところも多く、
(逆にいえば、若い頃はそんなわけはないと思いがちだということだが)
若い頃にもう少し気づいていればと思うが、時すでに遅しか。

全93章の最後は「誓わねばならない」。
すべての帰着点になっているというわけでもないのだけれど、
ぼくにはけっこう深く感じるところがあったので、
それを少し引いておきたい。

   悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるもので
  ある。気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。
  否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す。子どもの
  遊びを見ればわかる。子どもの遊びは規則がないと、けんかになっ
  てしまう。自分自身をさいなむあの無秩序な力以外にここではどん
  な原因もないのである。ほんとうを言えば、上機嫌など存在しない
  のだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だ
  から、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである。いず
  れの場合も理屈は奴隷みたいなものだ。命令にしがたって動くだけ
  だ。気分には驚くべき思考システムがあって、それが狂人にあって
  は拡大されて見られる。被害妄想にとらわれている不幸な人のおし
  ゃべりには、いつも真実味と雄弁とがある。オプティミズムから生
  まれた雄弁は、人の気持ちを和らげる類いのものであって、憤慨の
  饒舌とは好対照をなすものである。その雄弁を聞くと心が和らぐ。
  真価を発揮するのは口調であって、ことばそのものなど小唄ほどに
  も意味がないのだ。気分のなかでいつも聞こえてくるあの犬どもの
  うなり声、、あいつはまず第一に、やめさせねばならない。
  (・・・)
   そこから非常によくわかることは、オプティミズムは誓約を求め
  ているということである。最初はどんなにおかしな考えに見えよう
  とも、幸福になることを誓わねばならない。主人の鞭によってあの
  犬どものうなり声をすべてやめさせねばならない。

なんか、ある意味では、木で鼻をくくったような表現だけれど、
実際のところそうなのだ。
なにがあろうとも、自分でこうなのだ、と決めて
そのようにすると誓わない限り、どうにもならないということ。
「気分」というアストラル的歓楽を制御するというのは
実際のところたいへんむずかしいわけで
そうするためにはそれなりの「型」が必要となるわけである。

ぼくのばあいも、その一端に気づくだけでも50年ほどかかっていて、
ようやく、ああそうだったのだ、と思えたわけで、
若い頃、この「幸福論」を読んで
「おっかないおじさん」と思って本を閉じるのも仕方ないわけである。

ところで、上記で少し引いた引用の杉本秀太郎。
数ヶ月前にでた『伊東静雄』(講談社文芸文庫)で
ぼくなりに再発見した人でもある。
しかし、若い頃ほとんど読めなかったというか
読んでみる気にあまりなれなかった
伊東静雄だとか室生犀星とか、今読むとひどく新鮮で驚かされる。
歳はとってみるものである。