風のメモワール152
世界文学ワンダーランド〜カルヴィーノ
2009.10.10

池澤夏樹個人編集による世界文学全集が
河出書房新社から刊行されているが、
その「世界文学」について、
NHKテレビの「知る楽」で放送が始まっている。

とはいうものの、
書店で刊行されるごとにページをめくって
ふんふんそうかと思うだけでほとんど読んでいなかったりもする。
この「知る楽」のテキストではじめて
その池澤夏樹による「個人編集」という意図を少しだけ理解した程
度である。

まったく小説を読まない人にくらべれば
たまには読んでみることもあるくらいで
小説好きや世界文学好きな方からすれば
ぼくなどはほとんどそこらへんについては
まったく知らないといってもいいくらいである。
とくに最近は、小説を読むということに
以前にくらべてすごく敷居が高くなっていたりする。
ただでさえ読める本が少ないわけで
そのなかでの優先順位としては
ひどく低くなっているということでもあるように思う。
そもそも優先順位が高かったということはないわけだけれど。

とはいうものの、
高校生のとき、読書について
なにがしかの文章を書く機会があって、
そのときに書いた内容を少し覚えている。
「読書は一時的体験ではないが二次的体験になり得る」
という内容だったように記憶している。

人は生まれてくるときにその都度の魂の課題に応じて
そのときの生のプログラムを組むそうだが
(もちろん生まれてから変更することも多々あるようだが)
いろんな物語を読むということは
自分の直接的な体験にはならないけれど、
なにがしかの二次的、三次的体験にはなるようにも思う。

しかし、こうして実際に肉体をもって生きていることでしか
なかなか切実な魂の養分を得ることは難しいようで、
だからこそ、いくら考えても不可解で矛盾だらけで
場合によればひどく悪趣味でもあるこの地上生活を
(魂の奥底では)ひどく望んで生まれてくるわけだろう。
テレビゲーム的にシミュレーションするだけでは
体験としてのなにがしかが
決定的に欠けているということでもある。

「ワンダーランド」は、実際に生きてこそ
血湧き肉躍る(悲しみと喜びのジェットコースター)のだ。

さて、この世界文学全集、
ずっと前に読んだことのあるもののちらほらあって
そえはそれで懐かしいわけだけれど、
そのほとんどがぼくにとってはまだ読んだことのないものばかり。

そのなかでなにか読んでみようと思い、
ちょうど9月にでたばかりの
カルヴィーノ『見えない都市』というのも読み始めている。
元の皇帝フビライ汗にマルコ・ポーロが語る
帝国の諸都市についての報告、というもの。
現代詩のシリーズを読んでいるような感じで新鮮で面白い。

カルヴィーノはわりと好きな作家で、手元にも
『冬の夜ひとりの旅人が』『宿命の交わる城』
『柔らかい月』『レ・コスミコミケ』『マルコヴァルドさんの四季』などが
いまでも残っているが、この『見えない都市』は未読のままだった。
これをきっかけに読み直してみようとも思っている。

最後に、『見えない都市』について、巻末の「解説」より。

   すべてを知って(見て)しまった者だけが内にかかえ込む
   虚無とフビライは向き合っている。そしてその虚無と対峙
   しつづける宿命にあるわが身を見つめ、苦しんでいるーー
   マルコにはそれが分かっている。見えてしまう。
   こうして都市をめぐることばの果てに、フビライの沈黙と
   虚無という、またしても「不在」の在処を突きとめてしま
   うマルコ(と読者)にとって、目を凝らすべきは、やはり
   都市のすがた同様に、その「不在」の様態であるだろう。
   『見えない都市』とは、だから、「見えない」ものを確か
   めながら「見る」、つまりは「見えない」ものに目を凝ら
   すという行為の連続のなかにだけ「存在」する「記憶」の
   集合体なのだと言い換えてもかまわない。

この「都市」を私たちそれぞれの魂の記憶の集合体、
というふうにとらえてみるのも、またひとつの読み方だろう。
記憶という「不在」、
「不在」ゆえにそれに目を凝らす私たち。

今を生きている(と思っている)わたしたちも
ある種、記憶という「不在」を生きているのかもしれない。
だからこそ「自分探し」とかいうある種の愚かさのなかで
(実際のところその「自分」の「不在」に気づくだけなのだけれど)
煩悶したり、自分で自分を安易に洗脳したりもしたくなるのだろう。

ワンダーランドは
この生の体験と不在の体験のあいだを
激しく激しく明滅する有機交流電灯のような感じでもある。