昨日、日本ハムがパリーグ優勝した。
7連敗していた西武に延長十二回の裏、
金子誠の犠打がサヨナラになった。
先日9月20日には、ダルビッシュが登板するというのもあり、
大阪の京セラドームまで、オリックス戦を観戦に出かけた。
ちょうどその試合を最後にダルビッシュが
故障のため戦列を離れることになった負け試合だった。
スポーツ観戦でひいきのチームを応援するというのは、
ぼくの場合、以前ではまず考えられないことだけれど、
ここ数年、ずっと日本ハムを応援していたりする。
そしてごくごく単純に、勝てばうれしいし、
負ければどうも気分が悪い。
今でもぼくとしては、
疑似戦争的な意味を持っているスポーツというか、
そうした勝ち負けをつける戦いが好きなほうではないのだけれど、
ある意味で、ここ10年以上のあいだ、
「戦うこと」についておりにふれて考えてきた。
きっかけになったのは、
ポーラ・アンダーウッドによるネイティブアメリカンの口承史
『一万年の旅路』を読んでからのことだったと思う。
今でもよく覚えているところを引いてみる。
「さあ行って、われらのために学んでくるがいい」
彼らはこんなはなむけの言葉を送った。
「戦の道とそのわけについて。もしかしたら、それが理解できれば
平和と統一をめざす良い道が見つかるかもしれぬ」
そしてこの言葉は実行され、代々の若者たちが戦の本質を探るこ
とになった。ある者は平和の道を選び、またある者は戦の道を選ん
だ。しかし、ものごとが深いところで変わっていた。それぞれの道
を歩む者たちの意識が広がったのである。
(ポーラ・アンダーウッド『一万年の旅路』翔泳社/1998.発行/P.477)
少しずつ気づくことができたのは、
ぼくが、ずっと戦いを避け続けてきたということだ。
戦うことを否定して生きてきた。
これは、一見、とても平和なことであるようにも見えるかもしれないが、
おそらく実際のところ、戦いを避けるのは
かならずしも戦うことを通じて学ぶことを拒否することにもなる。
しかし、ほんとうに必要なのは、戦いを否定することではなく、
みずからの内にもあるであろう戦いの種の部分を
どのように育てていけるかということでもあるのだろう。
そうでなければ、なぜ戦の道があるのかを理解することができない。
理解できないものを否定するということは、
戦において盲となることにほかならない。
しっかり目をあけて戦を観ることなくして、それを克服することはできない。
・・・といったことを学ぶために、
日本ハムを応援しているわけではないけれど、
やはり、勝ち負けといった単純さのなかに
感情的にも身を置いてみるというのは、
ある意味、戦という仮象をまとったこの地上世界を生き、
そこで学ぶためにはとても大切なことなのかもしれないという気がしている。
「さあ行って、われらのために学んでくるがいい」
そう促されて、こうして生まれ出、生きているのだろうから。 |