風のメモワール150
ドラッカー
2009.9.29


ほぼ日で「はじめてのドラッカー」という
ドラッカーの翻訳者の上田惇夫さんへの
糸井重里のインタビューを面白く読んだ。
今日(9月29日)が最終回。

糸井重里もフリーのころには、
「組織」、「経営」とか「マネジメント」とかには
嫌悪感のようなものを感じてさえいたという。
ぼくも似たようなもので、
だから、そういうコトバと近しいイメージのある
「ドラッカー」に近づくことさえ実際のところなく、
どんな人なのかもほとんど知らないできていた。

年をとる良さは、
そういう食わず嫌いを越えることも
場合によればできるようになるということかもしれない。
もちろん、年をとることを、
その逆のほうこうで使うこともあるわけだけれど、
少なくともある程度、自分をスポイルさえしなければ、
ある種の総合力というか広く見る目の可能性を
得ることは年をとらなければむずかしいわけで、
せっかく年をとるいじょうは、
そこらへんの「もう食わず嫌い」を克服する方向に
自分を向けたいものだと思っている。
案の定、ドラッカーはかなりおもしろい人だし、
自分が食わず嫌いしてきたことについて
ちょっと損してきたようにも思えてきたりしている。

しかし、せかっく食わず嫌いをできるだけなしにしよう
と思ったときの問題は、最近の余裕のなさかなと思う。
ちょうど、今日のほぼ日にも以下のようなところがあった。

 でも、なによりもいまのじぶんが強く思うのは、
 「やっぱり昔は、いまほど忙しくなかった」
 ということです!
 もう一回、くりかえしちゃおう。
 「やっぱり昔は、いまより忙しくなかったんだよ」

 どんだけ忙しいぶっていたかはともかく、
 いまの「やらなきゃならないこと」の半分くらいしか、
 仕事をしていなかったと思うんですよ。
 あの時代を回していくには、
 あのくらい仕事をしているだけでなんとかなった。
 そういうことだと思うんですけどねー。
 例えば2009年の現在、ほっんとに、みんなが、
 ぎりぎりまで仕事していると思いますよ。
 ぼく自身のことを考えても、昔のほうがラクだったもん。
 (ほぼ日「今日のダーリン」2009.9.29.より)

今の自分がそんなに仕事をしているわけではないけれど、
たしかにずっと前の自分をふりかえってみると
1日の半分以上は、仕事をしたふりをしていたというか、
ふりをするまでもなく、いろんなことに時間を使っていた。

このところのちょっと厳しい世の中の経済環境もあるだろうが、
最近の、忙しさというのはちょっとひどいんじゃないかと思うところが多い。
たぶんこれは個人的なことだけではなくて、
世の中全体が、なんだか、そういうふうになってきているようにも見える。
ハンドルの遊びがなくなると運転がこわくなるように、
世の中もそういうところがあるんじゃないだろうか。

以前のような時間の使い方だったら、
仕事のある日でも一日で本を一冊読むなんて
そんなにむずかしいことでもなかったけれど、
今それをしようとするとけっこうな時間のやりくりが必要になる。
音楽だってCD1枚くらいは毎日聴きたいわけだから、
そうなると生活の仕方そのものをよほど工夫しないとキツくなる。
しかし、なんか、仕事ばっかりするというのは、
あまりいいことではないなあというのが実感のこの頃である。

食わず嫌いすることで自分を守らなくても
なんとかなるような自我を少しは持てるようになっても、
今度は嫌いだったものを食べてみる時間がなくなるというのは
あまりにも貧しい状況ではないか。