風のメモワール147
アーサー・ビナード『日々の非日常』
2009.8.11

アーサー・ビナードのエッセイ集のひとつ
『日々の非日常』が文庫になった(新潮文庫)。

このタイトルだが、最初みたとき
一瞬「日常の非日常」に見えたりしたが、
『日々の非日常』というのも同じことだろう。
アーサー・ビナードの視点は、
日本語を使うのを当たり前のように思っている日常を
非日常にしてくれることがよくある。

アーサー・ビナードは、アメリカから日本にやってきて
日本語を使うようになった。
そして、中原中也賞なんかも受賞したりしているほどの、
日本語の「使い手」でさえあるのだけれど、
その視点は、日本語が日常と化してしまっている日常に
意識化された日本語という非日常を持ち込んでくれる。

このエッセイ集の最初には
「ゲッキョク株式会社」というエッセイがあるが、
この「ゲッキョク」というのは「月極」のことで、
「日本語を勉強して、何が一番難しかった?」と聞かれたら
すぐに思い浮かぶのが「月極」だというのである。
来日した頃、街を歩きながら、看板を「解読」していたとき、
「駐車場」と記してある看板が
「パーキング」のことだとはすぐにわかったのだけれど、
その頭についている「月極」というのが
和英辞典で「ゲッキョク」と引いてもでていなくて、
あれこれ考えるうちに企業名だと思い込んでいたのを
来日6年目にして、「月決め」と書いてある看板にでくわし、
ようやくそれが「月極」の意味がわかったというのである。

こういうふうに、アーサー・ビナードの視点は、
わたしたちの日本語の日常をそのまま非日常に変えてくれる。

アーサー・ビナードのカタカナ語の好き嫌いも面白い。
好きなカタカナ語に「アバウト」というのがあって、
英語からすると「型破りの使い方」になっているけれど、
「やや邪道的な楽しみを覚えながら、好んで使っている」そうだ。

それに対して、「好かないカタカナ語」のトップには
「ユビキタス」があるという。

その部分を少し引用してみたい。

   そのもとになった英語のubiquitousは、キリストが「至るところに
  存在する」ことを示す宗教用語だ。
   ただし現在は、真面目に使われるケースは少なく、むしろubiquitous
  mosquitos(逃れられない蚊)のように、皮肉を込めてうざったい存在
  を形容する場合が多い。
   にもかかわらず、情報通信技術を神と勘違いしてしまったのか、日本
  のある学者が「ユビキタス社会」を提唱し出し、企業と行政がそれを真
  に受けているらしい。
  「いつでもどこでもネットワークに接続できる」新世界と謳い上げるが、
  本当にそうなったら、人々はいつでも監視下におかれ、個人情報取り放
  題の状態になるんじゃないか……。

ubiquitousがキリストが「至るところに存在する」ことを示す、
というのはこのエッセイで初めて知った(無知である)。
そうだったらいいいのだけれど、
たしかに携帯電話のようなものは、
まさに蚊のようなものであるというのはよ くわかる。
しかもその蚊は、ときにひどく悪質な病原菌を振りまいたりもする。
とはいえ、ぼくも仕事のときだけは、
携帯電話と「臨在」することになっていて疲れるが、
野球の試合がどうなっているのか気になるときに
どこにいてもすぐにわかるのを重宝したりするときもあったりする。
便利と誘惑に負けるぼくがいる(阿呆である)。
そういうときには、せめて、
そういう日常を非日常に変える意識だけは持っておきたいと思っている。