風のメモワール145
無用の用
2009.7.7

   中村/いま、社会が科学に対して答えを求めすぎていませんか。
   科学は答えを出すものではないんです。科学者にとっては、答え
   が出たらもうおしまい。本当は読んだ人が考えるきっかけになる
   ものを書くのが、研究者の書く意味だと思うのです。
   池内/世の中一般に、忙しくなったせいなのでしょうね、早く答
   えがほしいし、効能を求める。金で答えが買えると思っている。
   健康が買えると思っているのと同じにね。
   中村/このごろ思うんですよ。本当に大事なことなら、役に立た
   ないことだっていいでしょうと。昔、日露戦争が起きたのを知ら
   ない先生がいたという話がありますね。時にはそういうことがあ
   ってもいい。社会で何が今起きているかわからないほど没頭して、
   一生懸命やっているという。そんなふうにして100人をゆった
   り泳がせておいたら、一人か二人すごい人が出るのではないです
   か。
   池内/100人を競争させたら、結局つぶしあって誰も残らない
   ことになりますからね。
   中村/科学は、世界観をつくるものであって、本質的に役立つも
   のではないと思ってもらってはいけないのでしょうか。
   池内/いいんじゃないですか。日本では科学は技術をくっつけて、
   「科学技術」という語にしてしまって、すぐに役に立つものみた
   いに思われている。科学は文化なのだから、無用の用、役に立た
   ないと思ったほうがいいんです。
   (池内了+中村桂子「科学者にお茶の時間を」
    「考える人」No.29 2009年夏号 所収)

2009年夏号「考える人」の特集は、「日本の科学者100人100冊」。
その特集にあたっての対談の最後のところを引用してみた。
きわめて健全な意見だと思うけれど、
世の中の多くの人は、科学をこんなふうには見れてないだろうと思う。

小さい頃、科学がどんなものかもわかないままに、
科学者というのはぼくにとってちょっとしたあこがれだった。
閉じこもってひたすら研究し続けるというイメージ。
世界のことも、世の中のこともよくわからなかったけれど、
研究しつづけるというそのことが、ぼくにはどこか特別なことだった。

そういう思いは、今も変わらない。
今は科学だけにかぎったイメージはないけれど、
やはり、研究し続けるというのは、
そのことそのものがぼくにとって特別なことでありつづけている。

なんだか、世の中ほんとうにせちがらくなって、
なにか少し知識や技術のこれっぽっちを得ると、
すぐにそれを教えたがったり、権威にしたがったり、
お金にしたがったりととても忙しい。

ぼくには、特別な知識や技術がないというのもあるのだけれど、
基本的にずっと役に立たないものというのが好きなところがあるので、
というか、役に立つー立たないを基準でものを考えないので、
ずっと「無用」のままでいたりする。
たぶん、自分のやっていることが
(仕事でやっていることは別世界だから仕方がないとして)
ひょっとしてどこかで役に立ったりするとしたら、
驚いて、今以上に隠遁してしまうのではないかという気がする。
役に立つのはかまわないが、そっとしておいてくれ、わしは知らん、という感じ。

まあ、ぼくのような無用之介ばかりだと世の中は成り立たないかもしれないけれど、
世の中は、「役に立つ人」になりたがっている人ばかりのようだから、
ぼくのような無用之介がどこかにひっそりといることで、
バランスを保っているのではないかと、そんな空想をしてみたりする。