風のメモワール144
アファナシエフ詩集、そしてジェズアルド
2009.7.2

ジェズアルド。

世界ではじめでこの日本で出版されたという、
アファナシエフの詩集『乾いた沈黙』(論創社/2009.6.25発行)に
収められている「響き」という詩のなかに
あらわれた「ジェズアルド」。

   響き それは
   音があったということだ
   多くの音
   多くのハーモニー
   バッハ ジェズアルド ブラームス

ジェズアルド、ジェズアルド・・・、
どこかで知っている名前。

ちょうど、
ストラヴィンスキーの
『ジェズアルド・ディ・ヴァノーサ400年祭のための記念碑』
(デニス・ラッセル, 指揮, シュトゥットガルト室内管弦楽団)で
数ヶ月まえに聴いたところだったのをようやく思い出した。
ストラヴィンスキーは、「半音階による音楽語法」を使って作曲した
このカルロ・ジェズアルド(1566-1613)を高く評価していたということだ。

6つのマドリガーレと
聖務週間日課のためのレスポンソリウム集で知られる
後期ルネサンスの異端児であり、
不貞を働いた妻と愛人を従者とともに殺害し、
罪の意識、みずからの内なる悪の意識とともにあったという、
ジェズアルド。

先日、出かけた「タリス・スコラーズ」のコンサート以来、
(なんと、瀬戸内海の小島、瀬戸田の「ベル・カントホール」での演奏会)
久しぶりでルネサンスの音楽を聴き直しているのだけれど、
新星堂オリジナルということででている
CD5枚組の「ルネサンスの旅」という企画にも、
あらためて見てみれば、何曲か収録されているのがわかった。

ジェズアルドの作品は、
ルネサンス的な様式を突き崩そうとする激しさとともに、
ぎりぎりのところでポリフォニーの枠組みのなかに踏みとどまっているというが、
その技法を継承・発展する作曲家はいなかったということである。

そういえば、アファナシエフの
『音楽と文学の間/ドッペルゲンガーの鏡像』(論創社/2001.10.20発行)
のなかにも、どこかで「ジェズアルド」がでていたはずだ。
と思い、探しているとジューベルトについて書かれている章のなかに
その名前を見つけることができた。

   私はかつてあるエッセーで、もしジューベルトがさらに十年生きていたら、
  ダンテの地獄にいくつの圏域を加えていただろうと問うたことがある。今日
  なら、人生最後の二年間に、彼は地獄の圏域の何カ所に停泊したのかと問い
  たい。いずれにしても、シューベルトの田園風景は、ダンテの「地獄篇」第
  三二歌に描かれた自殺者の森の樹木のように、血を流している。
   もし身を持って経験されたとしたら、ジェズアルド作《マドリガル》の第
  五巻および第六巻を聴くことは、聴き手の死を招くであろう。しかしカタル
  シスのおかげで、私たちは芸術を深刻に受けとめることから免れているのだ。
  痛切な郷愁をもって、モスクワ音楽院の学生時代はじめてシューベルトの
  《四重奏 ト長調 作品一六一》を聴いた日のことを思い出す。おもにこの
  作品のそれ自身の限界を超え、「恐怖」という言葉を聴覚として定義してい
  ると感じないではいられなかった。何年も後に私は、ミラノでムンクの絵画
  と版画の特別展を見て、同じような印象をもった。
  (P.103-104)

さて、数ヶ月にいちどは、なぜかルネサンスの音楽に浸っていたくなる。
そしてその都度、それまではあまり聴いたことのなかった作曲家の作品から
さまざまなイメージを立ち上がらせてみる。

数ヶ月前に出会った作曲家は、ニコラ・ゴンベールだった。
ヒリヤード・アンサンブルによる
『ゴンベール:ミサ・メディア・ヴィータと6つのモテット』。
ゴンベール(1495頃〜1560頃)は、
ジョスカン・デ・プレとパレストリーナの間の世代に活躍した
フランドル派の作曲家で、複雑なポリフォニー様式を存分に展開させたという。
このゴンベールは、ルネサンス関連でも久々の発見でだった。

そして、今は、ジェズアルド。
アファナシエフの詩とともに、
しばらくはその世界に彷徨ってみることになるかもしれない。