風のメモワール141
『神秘学概論』と『遠野物語』から100年
2009.6.22

ここ数ヶ月、シュタイナーの基本書にあたる
『自由の哲学』『神智学』
『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』『神秘学概論』、
そして、筑摩書房からでている「シュタイナー・コレクション」全7巻などを
できるだけじっくりと読み直しているところなのだが、
『神秘学概論』の「初版のまえがき」が書かれたのが1909年12月のこと。
(刊行されたのは1910年)。
ほとんど100年が経ったということになる。

最近、読み直す、というよりは
あらたに面白く読んでいるのが柳田国男と折口信夫で、
柳田国男のもっとも有名な『遠野物語』が刊行されたのも
この『神秘学概論』と同じ1910年(明治43年)。
(聞き書きがされたのが1909年)
この1910年というのは、夏目漱石の作品でいえば、
『三四郎』『それから』に続いて『門』が執筆されていた年にあたる。

夏目漱石の同時代、ということは
ぼくの大好きな寺田寅彦とも同時代ということになるが、
シュタイナーが主に活動したのは、
明治時代から大正時代(昭和元年が1926年)。
そう思って、シュタイナーの著作や講義集などを読むと、
また少し違った視点というかイメージを持つことができるのではないかと思う。
ちなみに、(今たいへん面白く読んでいるのだけれど)
ユングの『タイプ論』の刊行されたのが1921年である。

話は少し変な方向?に行くが、
そうした同時代における人間関係の「ペア」などを見てみると、
またちょっと面白い視点を得ることができる。

柳田国男と折口信夫。
フロイトとユング。
この両者の関係はちょっと似ているところがあったりして面白い。
いきなり時代は遡るが
最澄と空海というのも思い出される。
とかいうことを考えてふと思ったのが
空海とシュタイナーがどこか少し似ている感じがするということ。
どちらもいきなり密教と神秘学を総合的にまとめあげているが、
またどちらも、あまりに抜け出ていたために、
後継者がほとんど育たなかった、というか
それ以上の展開がなかなか進まないということもいえる。

そういう意味でいえば、
最澄のような、未完成のままでいたほうが、
ある種の「余地」がさまざまに残されていて、
そこからさまざまな試行錯誤を通じた展開へと
道が開かれていくようにも思うのだけれど、
そういってしまえば、元も子もないので、
『神秘学概論』から100年経った私たちというのは、
ある意味で「その先へ」の視点を持つ必要があるといえるのかもしれない。
・・・とはいえ、シュタイナーを読むにつけ、
それを理解するだけで四苦八苦なのではあるのだけれど。