世田谷パブリックシアターで野村萬斎がプロデュースしている 
          『MANSAI 解体新書』の10回目(2007年1月11日)の 
          「観察」〜「物学(ものまね)」というリアリズム〜が 
          DVD化されていたのを見てみる。 
        野村萬斎が、ものまねで有名なコロッケと 
          ロボット工学を研究している池内克史を迎えて 
          トーク&パフォーマンスを展開する。 
        タイトルにある「物学(ものまね)」というのは、 
          世阿弥の風姿花伝にある表現であるが、 
          狂言などでも、ものまねというのは重要な要素だという。 
          型をおぼえていくというも、 
          ある意味では、先達をまねることでもある。 
        しかし、そのまねるということは、 
          そのまま機械的に模倣するということではなく、 
          そのエッセンスを自分なりにまねぶということのようである。 
        ロボットが、日本の伝統的な踊りの動作をまねるという実験の模様も 
          紹介されていたが、その際にも、踊りのなかの特徴的な部分を 
          ロボットが動作可能なものにとりいれながらプログラムをつくらないと 
          そのまま動きを模倣したのでは、踊りにはならない。 
        コロッケのものまねの仕方についての話でも、 
          なにかをまねるということは、そもままを模倣することではなく、 
          自分なりにとりだしたその特徴を自分の可能な型に 
          とりこみながら表現していくことであることが、示唆されていた。 
        学ぶことは、まねぶことであるとがいわれるが、 
          そのまねぶということ、そのための型の修得ということについて 
          あらためて考えてみると、 
          そこで重要なのは、なにをまねぶのか、 
          そのまねる部分をどのようにとらえることができるのか、 
          またそれを自分という個性のなかで効果的に取り入れるためには 
          どのような仕方が適切なのかを、 
          自分なりに検証し、試行錯誤していくことなのではないだろうか。 
        そのためには、じっくりと「観察」することが前提になるし、 
          その上で、それをそのままミクロのレベルで模倣するのではなく、 
          (ひとは一人ひとりさまざまに異なっているので、 
          それそのものをそのまままねするということは不可能なのだ) 
          それらを全体としてとらえていく視点が不可欠になる。 
        守・破・離ということにおいても 
          最初は「守」がもっとも重要であり、 
          それはある意味、まねぶということである。 
          そしてそのまねぶことをいかにさまざまに工夫できるかということが 
          その後の、自分なりの創意工夫を展開していくことができるかの 
          前提にもなっていくように思える。 
        なにか新たなものの見方などに出会ったときなどにも、 
          そうした、まねること、まねぶことについての基本を忘れずに 
      遊ぶことができれば、そこからまた新たな何かが見えてくるかもしれない。  |