風のメモワール137
本を読むということ
2009.5.21

本が売れず、書店数がどんどん減っているらしい。

松岡正剛「千夜千冊」第千二百九十九夜(2009年5月16日)には、
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1299.html
「出版売上は前年より670億円以上落ちて、
昨年1年間の廃業書店が1095店に及んだ」とある。

ぼくの住んでいるまちをみると、郊外型の大型書店がいくつかできて、
小さめの書店が閉店したりしている。
個人的に言えば、大型書店のほうが品揃えがよくて本を手に入れやすいし、
古書店も大型化、チェーン化しているところがあり、
アマゾンなどのネット書店を使えば、数日のうちに、
場合によればとても安く本を手に入れることもできるわけで、
むしろ便利になっている感じもするのだけれど、
「出版」事情に関していえば、深刻な変化に直面しているのはたしかだろう。

問題は、生態系や食の現場のようなもので、
多様性や独自性等が失われることにある。
他のメディアではむずかしい、
いわば「思考」を養い育てるとでもいう土壌の部分が、
どんどん貧しくなっているということなのだろう。

松岡正剛は相当な危機感をもっていて、
「千夜千冊」をはじめることになった背景にもそれがあるようだけれど、
本が売れないとかいうよりも、気になっているのは、
本やメディアがもたらすものの変化のほうらしい。
「ほんとうは出版の本質にとって最も重要なのは「意味」である。
本やメディアがもたらすもの、それは一言でいえば「意味」なのだ。
出版界とは「意味の市場」の現場なのだ。」

先日来、岩波書店の元社長の大塚信一の著書に目を通している。
山口昌男、中村雄二郎、河合隼雄といった方とともに、
そのプロフィールから引用するとすれば、
「学問・芸術・社会にわたる知の組み換えと創造を図」ろうとした方で、
たしかにぼくもその編集者としての仕事からは
かなりの影響を受けていることがあらためてわかった。
賛否はあるだろうが、岩波書店は岩波書店にしかできなかったであろう、
ある種の「意味の市場」をつくりだしていたわけである。

ちなみに、現在出ている次の著書は、トランスビューからでている。
◎『理想の出版を求めてー一編集者の回想1963-2003』
◎『山口昌男の手紙/文化人類学者と編集者の四十年』
◎『哲学者・中村雄二郎の仕事/<道化的モラリストの生き方と冒険』
これに加えて、来月には
◎『河合隼雄 心理療法家の誕生』
が出る予定になっている。

たしかに、こうした出版という「意味の市場」を作り出す営為の変化は、
まさに「意味」そのものの変化となってあらわれることになる。

本を買ったり読んだりする人の数が
そんなに減っているのだろうかと考えてみると、
おそらく、いわゆる娯楽的な消費のための本を除けば、
たとえば、日本におけるキリスト教徒の数が一定数であったり、
おそらく自分をある種の信仰者として特定の宗教に入信している人の数が
おそらく一定の比率であることが予想されるように、
ある種の「読み方」をする人の層は、そんなに変わっていないんじゃないかと思う。

実際、ぼくの仕事場などのまわりでもそうだけれど、
雑誌程度以外に本を読む人の姿というのは、以前からほとんど見かけない。
ある種の「意味の市場」を形成するであろう本の読み方をする人というのは、
以前も今もそんなにその数が変わっているわけではなさそうに見える。

おそらく現在深刻になっている問題というのは、
金融と生産の問題にも現われているような問題なのだろう。
「大衆化」の問題ともそれは深く関わっている。
裾野が広がり、その裾野の影響が大きくなってくることで、
それまで「神聖」であった(のかもしれない)山頂にも
さまざまな問題が生じてきているともいえるのだろうか。
しかし、その「大衆化」ゆえに、ぼくのような「大衆」さえもが、
ある種の求めに応じた知識の収集などが可能になっているわけである。
むずかしいが、不可避の問題でもある。
特権化とでもいえるあり方でしか存続の難しかったものが、
その特権を失った状態でどのように成立可能かという問いでもある。

さて、先頃、松岡正剛『多読術』(ちくまプリマー新書)が出たところだが、
本をたくさん読む(量)ためにはどうすればいいのか、というのではなく、
その「読み方」についての、いわば「質」の本。
ぼくはそんなにたくさん本を読んでいるわけでもなく、
読書に使える時間もわずかなものではあるけれど、
それだからこそ、最近とくに思うことが多いのは、
いわば「古典」(広い意味で)をいかに読んでいないかということ。
つまり、あまりに教養がないということに尽きるわけだけれど、
だからこそ、その読む本の質と読み方の質をちゃんと考えなければと思うのである。
シュタイナーを読むにしても、その背景にあるさまざまな歴史や文化などについて
あまりに自分が無知であるかをいつも痛感させられ続けている。
課題山積である。