風のメモワール133
記録と記憶
2009.4.15

「大人の科学」Vol.23は、「進化する磁気記録」。
ふろくは、「ポールセンの針金録音機」。
シンプルな磁気録音機だけれど、
「なぜ録音できるのか?」という興味は止められない。

オープンリール、カセット、フロッピーディスク、ハードディスクと
アナログからデジタルへの変遷はあっても、その流れは基本的に磁気記録。
その録音の仕組みは、「音(空気の振動」→「電流」→「磁気」という変換であり、
S極N極を持つ磁石になった針状の粒子が塗られ磁化された「磁性体」に記録されたものが、
再生時には、今度は逆のプロセスで再生される。

まだふろくを組み立ててはないのだけれど、
基本的な仕組みはなんとなくイメージできた。
とはいえ、レコードの再生ほど、いまひとつぴんとこないところがある
現象としては理解できるし、その驚くべきスピードで進んでいる
技術的なところというのは、そうなんだろうなと腑に落ちるのだけれど、
そもそもの、その「記録」というところで、
「その記録というのはいったい何なのだろう?」と疑問に思ったりする。

現在では、録音するというのは、とても簡単な作業だし、
それをカセットやMDはもちろん、CDに焼くなども手軽にできる。
それどころか、映像の記録さえも簡単にできる。
そう、映像記録にしても、音声記録にしても、
その「記録」されたものとその「記録」のもと(生のもの)とは
いったいどういう関係にあるのだろう。
さらに問うならば、生で見たり聞いたりしている(と思っている)ものは
いったい何なのだろうというところにまで行ってしまう。

さらにいえば、たとえば、ぼくが今、
お気に入りの曲や映像を思い出したりしているときの
その思い出している表象(イメージ)というのは、
いったいどういう形で「記録」されているのだろうか。
脳科学者だと、脳に保存されているとかいうのだろうが、
実際はエーテル記憶としてあるものが
脳を中心とした器官で再生されているのだろうと思うのだけれど、
そこらあたりも考えるほどに、わからないことはふえてくる。
そして、「ぼくという記憶の総体」とでもいったものへと問いは広がってくる。

SFなどでは、そこらへんのネタはよくあったりする。
ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」(ブレード・ランナー)などでも
アンドロイドの偽記憶(記録)とその人格の悲しみのようなものが描かれていた。
「ぼく」という存在の記憶、そして記録・・・。

さて、そうした問いはこれからもずっと続いていくとして・・・、
「大人の科学」Vol.23の記事のなかには、
「ラジカセの時代」というヒストリーが次のような見出しで
懐かしく紹介されている。

「オープンリールからラジカセへ」
→「ラジカセ誕生」→「ステレオ登場から、大型ラジカセブーム」
→「小型化ファッショナブルに!より身近な時代へ」
→「CDラジカセ誕生!バブル・ラジカセの時代へ」→「ラジカセの現代」

こうしてふりかえってみると、ほとんどぼくの生まれ育ってきた時代と重なっている。
「磁気記録テープ」の歴史年表をみると、
ぼくの生まれた1958年に
「日本・ソニー、日本で最初の4ヘッドVTR完成」とあり、
カセットテープがオランダ・フィリップで開発されたのが1962年。

ぼくがはじめていわゆるラジカセを手にしたのは
たしか1972年か1973年の頃だったと思うのだけれど、
今や、カセットテープはほとんど歴史とともに滅んでいこうとしている。
光陰矢のごとし、というか。
時代とともにこれだけ技術がどんどん進んでいくと、
たとえば「記録」ということそのものへの意識も
「あたりまえ」という無意識に置き去りにされてしまうかもしれない。
技術的にできる、ということと、
その現象なりが理解できるということは別物なのに
そのふたつが同じことであるかのように受け取られてしまうことにもなる。

なぜ存在があるのか、
考えるということはどういうことか、
なぜ考えることができるのか、またできないのか・・・
そういった問いが、技術のなかで置き忘れられてしまうと
ちょっと危険な感じがすることが多い。
携帯電話を軽々と使いこなし、それなしではいられなくなってしまう若者など、
はたしてそこに「なぜ」がどのくらい加わっているのだろうか。
使えるということと、なぜ使うのかの距離。
さらに、なぜそれがあるのかという問いとの距離。

問いを進めていけば、
そのひとつには、かならず、「自分」というのはどんな「記録」なのか、
いやたんなる「記録」でない「自分」というのはどんな「存在」なのか・・・
といったところに行き着けるはずなのだけれど。