風のメモワール130
春を告げるヒバリ
(2009.3.17)

最近よく感じることだが、子供の頃とくらべ
最近のほうが季節の変化を実感することが多い。
なぜ逆ではないのかと考えてみたのだが、
子供の頃のほうがある意味季節と一体化しているところがあって、
「季節」として意識化することが少なかったのではないか。
むしろ最近になってのほうが、
「季節」「季節の変化」として意識的になっていて、
そのことをようやく実感として
ある種それが内面化できるようになったということかもしれない。
しかも「季節」ということを
「宇宙的イマジネーション」としてもとらえることができたり、
たとえば日本文化における季節というコンセプトを考えたりなど、
たんに寒暖の変化などの物理的な側面ではないところで
多面的、重層的にとらえることもできるようになったのもあるのだと思う。

さて、さきの日曜日は、風はとても強かったものの
鳥を見にでかけた干拓地などには
一面、浅緑色の草が広がっていて、
そこでしきりに、ヒバリが大合唱していた。
まさに、春告げ鳥のようなイメージ。
しかもふつうは草の陰に隠れてなかなか姿を見せてくれないのだが、
そのときは、至近距離でカメラを向けても逃げないどころか、
こちらを向いてしきりにアピールし続けてくれたので、
しっかりと撮影もすることができた。
そのときヒバリの真正面から見たところをはじめてみたのだけれど、
それはまるでコミカルなイグアナのような顔で飽きないというか・・・。

それはともかく、ちょうど
雑誌「BIRDER」の4月号に掲載されている
「古語りの鳥たち/古典と昔話の鳥を読む#28」(国松俊秀)が
「ヒバリは金貸し」というヒバリの話だった。

秋田地方や石川地方の昔話では、ヒバリのさえずりを
「利取る、利取る」と聞き、金貸しに仕立てているという。
お天道様にお金を貸したのだけれど、返してくれないので、
催促をするというような話である。

しかし、沖縄地方の昔話では、それとは異なって
たとえば八重山郡竹富島では
「ヒバリと若水」という話が伝わっている。

ヒバリは天の神様から若水(若返りの水)をあずかって
下界へ運んでいって人間に飲ませるようにいわれたのだけれど、
過ってハブに若水を飲まれてしまって、少ししか残らなかった。
人間はそれを手と足の爪にぬりつけたので、
切っても切っても伸びるようになった。
天に帰ったヒバリに神様はひどく怒って、
それまでヒバリは鳥の中ではいちばん大きな鳥だったのだけれど、
罰で今のように小さくなってしまった。
そんな話である。

さてさて、ともかくとても春めいてきて、
桜の開花も随所ではじまっているようだけれど、
冬鳥たちも帰り支度にとりかかっているようで、
今のうちに冬鳥たちをしっかり観察しておきたいし、
桜や梅に群がる鳥たちも観察したいしで、
この慌ただしいなかに、なんとも忙しいことである。