風のメモワール128
自作朗読される詩から
(2009.3.11)

自作朗読CD付きの『やさしい現代詩』(三省堂)という
おもしろい企画の本がでている。

編著は、小池昌代、林浩平、吉田文憲。
「自作朗読」しているのは、収録順でいうと、
谷川俊太郎、平田俊子、田口犬男、小池昌代、伊藤比呂美、佐々木幹郎、
岬多可子、新川和枝、稲川方人、安藤元雄、林浩平、高橋順子、
ねじめ正一、吉田文憲、藤井貞和、白石かずこ、入沢康夫。

まだ読んだことのない詩人もいるけれど、
やはり「肉声」には興味をひかれてしまう。
谷川俊太郎の声はひんぱんに聴くことができるけれど、
それ以外の人の声はそういえば聴いたことがない。
とくに、入沢康夫ファンとしてはその声を聴かないわけにはいかない。

 本書が自作朗読CD付きであるのは、読者の方々に、書かれた文字に
 耳を澄ますだけでなく、詩人の肉声を通して顕ちあがる詩の身体、そ
 こで呼び覚まされた読者自身の内なる声、生の感覚に直に触れて欲し
 いと願うからである。

とあるが、
あらためて感じるのは、
詩を読んでいるときに自分のなかで響いている声と
作者の実際の肉声とは、ときに
驚くほどかけ離れてしまうということである。
もちろん作者の声で詩を読む必要はないのだけれど、
実際、あまりにイメージとかけはなれてしまうと
少しばかり幻滅してしまうことにもなる。
幸い、入沢康夫はとてもイメージと近く
正直ほっとしたのだけれど。
(朗読されているのは、「水辺逆旅歌」)

そう考えると、
ぼくにとっての詩が聴くものではなく、
読むものである傾向が強いことにいまさらながらに気づかされるし、
(西洋などでは、よく作者の朗読会というのがひらかれるようだが)
ぼくの読む詩の(詩に限らずほかの文章もそうだけれど)
音声イメージというのは、多かれ少なかれ
ぼくなりのフィルターにかけられた声なのだ。

ぼくはよく朗読などを聴いたりもするのだけれど、
その際の朗読というのは、作者であることはまれで、
声優や俳優であることが多い。
そして、ふつう黙読する際にも、ときには、
「○○○○」のような声をイメージしてみることもある。
それも多かれ少なかれぼくのなかの音声イメージフィルターで
変換された音にならない音イメージなのだろうけど、
具体的なイメージをもたずに黙読するときの声というのは、
ある種、ぼくの理想化された声のイメージなのだろうという気もする。

そういう理想化された声のイメージを
詩人の肉声というのは、ある部分、壊してくれたりもして、
それはそれで、貴重な体験であるし、
そのことでぼくのなかの「理想化された声」のなかに
なにか新しい響きや声の質が加わってくるとすれば、貴重な体験になる。