風のメモワール126
インディアンの教育環境
(2009.3.4)

『シュタイナー学入門』『動物の本質』などを訳されている塚田幸三の
インディアンに関する新刊/翻訳がでているので、ご紹介しておきたい。

◎グレゴリー・カヘーテ『インディアンの教育環境』
 (塚田幸三訳/日本経済評論社2009.2.20.発行)

本書は、「スピリチュアル・エコロジー」的な世界観から
インディアンの世界認識の枠組みを
自己教育的に人間を完成に導く教育としてかなり体系的にまとめたもので、
「まえがき」に、
「本書は、世界を知るための二つのまったく異なる体系の間に
知的な橋を架けようとする、斬新で創造的かつ高度な努力を代表している」
とあるように、体系的かつ概念的、知的な部分が強くでていて、
図式的なカテゴリー分けによってその全体像をとらえる
ということが目的になっているように見える。
その点において、通常のネイティブアメリカン、インディアンに関するものとは
アプローチが異なっていて、ある意味で、
荘子の「混沌」の話に似通った部分があるのかもしれない。

荘子の「混沌」の話というのは、
「中央の帝」である「混沌」の「徳に報い」ようとして、
混沌に、それまでにはなかった
目や耳や鼻や口などのような7つの「穴」をあけてあげたが、
それで混沌は死んでしまったという話である。

「分かる」ということは、「分ける」からきている。
「分析」の「分」も「分ける」ことで成り立っている。
なにかを知的に理解しようとすれば
「分ける」ことは避けられない部分があって、
それは混沌に「穴」をあけるようなことにつながってしまうところがある。

インディアンの世界観を全体として理解しようとする試みも、
分ける、「穴」をあけることがそのプロセスとして必要であるところは確かにあ
って、
それで失われてしまうものがあったとしても、
現代の、特に西洋的な認識方法にある程度沿うかたちの
こうした試みはある意味必要な試みであるところがあるのかもしれない。

日本の芸能における継承は基本的に「型」の習得から入る。
その「型」は、知的で意識的な認識のための手法ではなく、
従って「分ける」とか「穴」をあけることなく、
いわば「体得」するための方法のようである。
そして、「型」を習得した後には、
「守」「破」「離」といったプロセスがあり、
その「型」をもとにさらに生きた展開の可能性に向かって開かれている。
しかしそれは、一子相伝のようにある種秘儀的な継承に近しい方法でもあり、
現代のように、開かれた「教育環境」といったものが必要とされるときには、
どうしても「体系的かつ概念的、知的な部分」というのは避けられくなるとこ ろがある。

さて、本書がもっているであろうそうした位置づけのことを念頭に置いた上で、
本書において提示されている「先住民の教育」のための7つの「学習プロセ ス」について
簡略にご紹介しておくことにしたい。
ちなみに、この「先住民の教育の最高の目標」は、
「互いに助け合ってそれぞれのいのちを見出し、人生において完全性を実現すること」であり、
「学習に関してさまざまなアプローチを探究することが奨励」されるという。

◎はじまり/誕生前(子どものスピリットに対する尊敬)
◎第一段階/基本的学習(家庭学習、文化学習、個性の家族における統合〜文化土地に対する感覚)
◎第二段階/社会的教育:生き残るための技術(自然環境への関わり方の学習)
◎第三段階/神話、祭事、儀式(個人のニーズを集団のニーズに融合、伝統に対する感覚)
◎第四段階/部族分化との統合(一定のエンパワメント、個人的バイタリティ、成熟)
◎第五段階/人生のビジョンを探す(個性化、神話的思考/関係性と多様性に関する深い理解)
◎第六段階/変容の先駆け(無意識に関する深い理解/苦痛、負傷、葛藤)
◎第七段階/深い治癒、理解、啓発、叡智(自己と身体、心とスピリットの相互化啓発)
◎上記の段階を通して、「中心の発見、完成」へと向かう。

さて、本書とは離れるが、最近、インディアン関連のもので興味をひかれたものは、
神話的なアプローチとしては、ユングが「自伝」のなかで
プエブロインディアンの村長と交わした会話や
『元型論』のなかにあるインディアン神話におけるトリックスターについて
それから神話学者でもあるジョーゼフ・キャンベルの諸著作、
プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルの「シャーマンズ・ボディ」、
少し前では、河合隼雄『ナバホへの旅 たましいの風景』などが
個人的には印象に残っているが、
こうした過去の深い叡智を、 未来に向けてどのように新たな形で展開していく可能性を持つか、
というところが大変むずかしいところで、
現在のインディアンの現状と未来、そしてそこから私たちが
何を学び得るのかといったあたりはこれからも重要な課題となるように思うが、
その基本となるのは、過去への回帰という方向づけを避ける必要があるということだろう。

新しい葡萄酒は新しい革袋にいれる必要があるように、
人間の進化もまた、新たなものを付け加える必要がある。
そのためにこそ、古い叡智とその担い手は
その古くなった衣をリニューアルして変容させていくためになにが必要なのかを
創造的に(破壊的にではなく)検討していかなければならないということだろうと思う。