風のメモワール125

森達也/ずらして見る


2009.2.19

ここ数日、森達也を読み続けている。
ある意味、いまの日本にとって、
この森達也の視点ほど必要なものはないかもしれない。

森達也は、オウム真理教を扱ったドキュメンタリー映画『A』で
有名になったという映画監督だが、残念ながらぼくはそれをまだ見ていない。
森達也の名前は、たとえば『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』とか
『世界が完全に思考停止する前に』といった著作の作家として
なんとなく知っているだけだったのだが、
実際にまとめて読んだのは今回がはじめて。

読み始めてみると、ふだんからぼくが言いたくて
うずうずしているようなことがたくさん書かれているので、
これはしばらくずっとつきあって、
そしてその周辺にある視点も自分に取り入れなければと思っているところである。

今ぼくが理解しているもっとも重要だと感じる森達也の視点の根底には、
一人称でいることを決して離れないでいるということでがあるように思う。
私という主語からはなれて、
「私たち」「国家」「民族」「家」などといったものに
呑み込まれているにもかかわらず、
それを自覚できないでいることに対する警鐘。

個人情報保護とかいうような法律までできていて
さもそれが「私」という主語を保護するかのように
錯覚している人も多いのかもしれないけれど、
とくにここ数十年の日本の流れを見ているとその逆で、
マスメディアもまたそれを事実上つくりだしている「私たち」も
ほとんど狂気に近いまでに「危機管理」のための他者や異質の排除などに
躍起になっているのは、少しでも意識すればわかる。

そしてそれは私という主語を薄め、それを
短絡的な感情、憎悪、恐怖などや「私たち」「国家」などの集合自我に
すり替えてしまうことでもある。
いろいろ迷い悩んだりするよりも、安易に「思考停止」するほうが楽だし、
自分を無前提に「正義」「善」とすることが容易だからだ。

さて、今回はそのメモはじめとして、
『視点をずらす思考術』(講談社現代新書1930)から。

  僕はKY(空気読めない)なのだ。
  (中略)
  空気や場、あるいは雰囲気がわからない。読まないのではなく読めない。
 読みたいけれど読めない。(中略)
  空気を読むことは人にとっては遺伝子に刷り込まれた属性なのだ。つま
 り人の本質。共同体にまったく関係しないままに生きる人がいないように、
 空気を読まない人も存在しない。群れて生きることを選択した人類にとっ
 て、空気を読む力はとても重要だ。
  日本民族はその傾向が他国に比べて少しだけ強い。だから団体行動を好
 む。個人競技よりも集団プレーのほうが得意だ。必ずしも悪いことではな
 い。この傾向が強いからこそ、国土の多くが焼け野原になった敗戦からた
 った十年あまりで驚異的な復興を成し遂げて、経済的な繁栄を謳歌するこ
 とができた。
  でも日本民族のこの属性は、加速が激しいだけに、方向を少しでも間違
 えたときの副作用が大きい。とても悲劇的な状況に自ら突き進んでしまう
 場合がある。
  僕はKYだ。つまり空気を読めない。危機管理の意識が標準より薄い。
 その自覚はある。そのうえで思う。この時代に生まれてよかたっと。もし
 も石器時代なら、僕のような個体は天敵に襲われて食われて淘汰されてい
 ただろう。
  でも今は石器時代ではない。人は現在の地球上ではヒエラルキーの最頂
 点にいる。食物連鎖の輪廻からも外れている。つまり天敵はいない。なら
 ば暴走しなければならない理由は、実のところもうほとんどない。
  だから天然のKYである僕は思う。時代状況を考えれば、もう少しKY
 が増えたほうがいい。全部とはいわない。全部がKYになってしまったら、
 その瞬間にたぶん社会は崩壊する。空気は重要だ。場を読む力も必要だ。
  でも特に今の日本社会についていえば、KYがもう少し増えたほうがい
 い。あまりに息苦しい。あまりに均質性を要求されすぎる。
  だからあなたにも考えてほしい。空気を読むことと空気に従うこととは、
 必ずしもイコールではないはずだ。
 (中略)
  視点をずらそう。
  この世界は無限に多次元的なのだ。事件や物事や現象は決して単面では
 ない。多層的で多面的だ。視点をずらしさえすれば、まるで鉱物の結晶の
 ように、新しい明度や色彩があなたの前に現われる。
  これらの多面な要素のうち、マスメディアは最も刺激的で最もわかりや
 すい局面を呈示する。ある程度は仕方がない。視聴率や部数という市場原
 理に拘束された経済の原則だ。仕方がないけれど、でもこれを額面どおり
 受け取るだけでは、この世界は矮小化されるばかりだ。善意や貧富や正誤
 などの二項対立に覆われるばかりだ。
  だからずらす。あなた自身が主体となって、扁平で横並びのマスメディ
 アの情報だって、これに接するあなたがほんの少しずれるだけで、多層で
 多面的な要素が現われる。二項対立の狭間が見えてくる。
 (P.10-21)

ぼくも十二分にKYで、「空気が読めない」ところがあるが、
それ以前にあまりに常識が欠けているというところがあり、
上記の引用でもあるように、「危機管理の意識が標準より薄」く、
以前に時代だったらすぐにお陀仏だった可能性があるだろうと思う。

世の中の価値観がわからないという以前に、
そもそもいろんな人が知っている世の中のしくみのことを
おそらくはいまだによく知らずにいる。
さすがに仕事を長くやっている関係でかつてほどではないけれど、
成人をしても、「公務員試験」があることも
「年金」という制度があることなどさえほとんど知らずにいた。
学生のころも(かろうじて大学はでたけれど)
「いい大学」といわれる学校のほとんどを知らずにいた。
だから、なぜ「いい大学」に行こうとする人が多いのかについて
ほとんど関心をもっていなかった。
就職するときにも同じで、ほとんど成り行き以外のものではなく、
「いい大学」と同じく「いい会社」というのも理解できずにいた。
おそらくぼくは、物心ついてから、ずっと
そうした価値観とは別の方向を向いて生きていららしい・・・
ということにかなり後になって気づくようになったということもできる。

ほんとうに、今でもKYではあるけれど、
こういうのでよく生きてこられたと自分で感心してしまうほどだ。
だからいまでも、ほとんど世の中の価値観や視線とは自ずと別の方向に
ぼくのベクトルは向かっている可能性は高い。
とはいえ、ぼくの仕事は、世の中の人の消費や意識の「マス」を読んで
それにそったメディアや表現をプランすることなので、
自分の視線と世の中の視線のベクトルの「ずれ」というのが
歳をとるほどに、意識化できてくる可能性は高いのではないかと思っている。

だから、ひょっとしたら、
シュタイナー受容の側面などにしても、
最初から世の中とずれているぼくの視線だからこそ、
ふつうの多くのシュタイナー・マーケットとは
おのずからずれてしまうところも多いだろうし、
しかも仕事ではない部分、それに合わせる必要もないわけで、
こうした「遊戯」もしてみることができる、ということなのだろう、と
あらためて考えてみている。