風のメモワール123

ラジオの時間


2009.2.16

愛川欽也の「キンキンのサンデー・ラジオ」が
メインスポンサーが見つからないために放送を終了した。
この不況の影響の波をもろにかぶった格好になる。

ちょうどブルータス(3月1日号)の特集が
「なにしろラジオ好きなもので。」

すでにラジオの広告費はインターネットに追い越され、
メディアとしてのラジオのポジションの低下は
あえて言挙げする必要もないほどだ。
だからこそ、ブルータスのこうした特集も
あえて組まれることになったのだろう。

かつてはぼくもラジオ少年だった。
1970年代の頃だ。
ぼくにとってのナンバー・ワンのメディアがラジオで、
ほんとうに毎夜毎夜、目の前には、寝床の中にもラジオがあった。
ひどいときには夜明けまで聴きつづけ、学校ではほとんど居眠り状態だった。
愛川欽也の「パックインミュージック」をきいていたのもそのころのこと。

ふりかえってみると、
ぼくにとっての音楽体験はその頃ほとんどラジオからきていた。
ラジオで流れる音楽を録音してそれを繰り返し聴いていたり。
そして今や、ラジオで知る音楽というのは、ぼくにとっては皆無で、
テレビでさえほとんどない。

ラジオで育った人たちにとっては、
その文化が急速に変化し続けていることに対して
ぼくの想像する以上の危機感があるのだろう。
ブルータスの特集からもそれはかなりはっきりと伝わってくる。

そういえば、広告の仕事を始めたころ、
全国の各地方都市でFM局が続々と生まれ、
その新しいメディアでの仕事が新鮮だった時代があった。
その頃には、ラジオ番組を制作するクライアントもわりとあって、
放送内容を検討する会議などで企画書を出していたりもしたが、
いまではそういう広告の仕事はほとんどなくなってしまった。
今やほとんどSP(セールスプロモーション)がらみの仕事がほとんどで
いわゆる「遊ばせてくれる」ような広告の仕事もなくなってきた。
そもそもかつてはよくつくっていたラジオCMさえ
つくる機会があまりなくなってきている。

実際、ほんとうに、ぼく自身、ラジオを聴かなくなって久しい。
三谷幸喜の映画に『ラジオの時間』というのがあったが、
ぼくがかつて過ごしていた「ラジオの時間」は
どこにいってしまったのだろう・・・とか
少しばかりノスタルジックにさえなってしまう。
そういえば、高校生の頃は、なぜかラジオドラマにはまっていて、
風間杜夫演じるハムレットなど
録音までして繰り返し聴いていたりもした。

ふと思い出したのだが、
シュタイナーはラジオとかのメディアには
ひどく否定的だったようである。
おそらくそのためだろう、
シュタイナーの声の録音があるとかいう話は聞いたことがない。
ほぼ同時代の出口王仁三郎がたくさん録音しているのと
ある意味で対照的だといえるのかもしれない。

しかしメディアはますます進展し、
そのラジオさえひどくアナログなイメージをまとい始め、
ある種のノスタルジーにつつまれてきている。
これからそのラジオを含め、さまざまなメディアがどうなっていくのか
わからないけれど、どちらにせよ、それぞれの時代には、
かつて「ラジオの時間」がもっていたような「時間」を
提供してくれるメディアがでてくるのだろうと思う。
とはいえ、おそらくそのメディアはかつてにくらべ多様になり、
その「時間」もまたさまざまに多様化していくはずである。
その多様化の行方にはしっかり目線を向けておきたいと思っている。