風のメモワール114

白川静×松岡正剛


2009.1.17

読んでしまうのが惜しくて、読むのを先延ばしにしていた
松岡正剛『白川静/漢字の世界観』(平凡社新書)を読む。
予想に違わず読みながら感極まってしまうほどのことも幾たびか。

松岡正剛も「あとがき」に書いているように、
この本が、白川静について書かれた最初の著書だという。
そのいちばんはじめの著書にふさわしく、
すばらしい紹介になっていると感じる。
著者自身も「小さな本ではありますが、
私自身はずいぶん緊張しながら仕上げました。
姿勢を正さなければ書けない、と感じたのです」と記しているように、
この本を読みながら、ぼく自身も
「姿勢を正さなければ」読めない、と感じていたほどだった。

「あとがき」の最後に、松岡正剛は
白川静さんの『回思九十年』のなかに収められている
インタビューから引用している。
ぼくも以前このインタビューを読んで深く思いを致したことがある箇所だ。

  私が学会の少数派であるという批評については、私から何も申す
 ことはありません。多数派とか少数派とかいうのは、頭数でものを
 決める政党の派閥の考え方で、大臣の椅子でも争うときに言うこと
 です。学術にはなんの関係もないことです。学会にはほとんど出ま
 せんから、その意味では少数派ですが、そもそも私には派はないの
 です。詩においては「孤絶」を尊び、学問においては「孤詣独往」
 を尊ぶのです。孤絶、独往を少数派などというのは、文学も学術を
 もまったく解しない人の言うことです。(中略)学問の道は、あく
 までも「孤詣独往」、雲山万畳の奥までも、道を極めてひとり楽し
 むべきものであろうと思います。

白川静さんの最初の著書『漢字』(岩波新書)が刊行されたときは、
すでに60歳になっていた。
その著書が出たときに、すぐに松岡正剛やナムジュンパイクなどが
その著書に感銘を受けたことも本書には記されている。
そして白川静さんのはじめての連載であろう「遊字論」も、その後、
松岡正剛の編集していた『遊』で始まることになる。
それが白川静68歳の、昭和53年のこと。
それから2006年、96歳で亡くなるまで、
ほとんど奇跡のような活動が続くことになる。

また、松岡正剛は、
白川静の漢字世界観は難解かつ深甚であるが、
だからこそ魅力的であり、
何でもわかりやすくして、「キャンディにかわいく」
していこうとするような最近の日本の姿勢こそが問題であると言っている。

  たしかに白川さんの著作も白川さんの漢字世界観も、正直いって
 難解です。いや、深甚です。それは私が思うには「東洋学≒日本学」
 という方程式のようなものに正面から生涯をかけて立ち向かったか
 らであって、この方程式に立ち向かった研究者たちは、徳川期の日
 本儒学者から明治大正昭和の東洋学者にいたるまで、実のところは
 ことごとく難解深甚なのです。
  しかし、」その難解でありながらも深甚であるところがたまらな
 く魅力的で、かつそのように漢字のもつ世界観のことや、東洋の言
 語思想や日本の文字文化につて語る白川静がほぼ一世紀にわたって
 ありえたということが、最も白川的であることのメッセージだと私
 はおもうのです。(略)
  にもかかわらず、この数十年の日本に決定的に欠落していたのは、
 そのように「白川的であろう」とすることでした。
  何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいく
 していこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題なのです。
 ですから、白川さんの本を読む、あるいはその研究を辿るというこ
 とは、私たちにほぼ陥没して欠落してしまっているであろう「アジ
 アの根本にひそむ深甚な世界観」にじかにふれるということであっ
 て、ということは、そのような白川的世界観を読むには難解な印象
 などをものともせずに、白川さん同様に「東洋学≒日本学」に立ち
 向かってみるということなのです。

引用しながら、
シュタイナーの精神科学から学ぶ際にも
これにほとんど似たことが必要なのだろうということを痛切に感じた。
日本のシュタイナー受容に「決定的に欠落していた」のも
「難解な印象などをものともせずに」「立ち向かってみる」
ということではなかったのだろうかということ。
でなければ、なぜそれがとほうもなく「魅力的」であることなど、
それが「深甚」であることもわかりようもないはずなのだ。
シュタイナーと称することを
「何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくして」
それを「シュタイナー」だと思いこみ、
その姿勢のまま、難解さに立ち向かうことでこそ得られる
認識を深める営為をスポイルしてしまっては、
なにが精神科学なのか意味不明になってしまうわけである。

もちろんそのためには、シュタイナーが語っていた内容の背景にあるような
西洋のさまざまな思想や哲学などをある程度理解することも必要だろうし、
日本にいる私たちは、私たちが今あることにともなう
日本の、そして東洋のさまざまな文化や思想や叡智について
認識を深めていくことも同時に求められている。
そしてそれには、アンチョコですませてしまうようなことは意味をもたない。
そのためには、白川静さんのように、ふつうなら定年を過ぎた頃から
精力的に歩むことさえ、「孤詣独往」、「雲山万畳の奥までも、
道を極めてひとり楽しむ」ような姿勢が必要なのである。
結果はともかく、そうした姿勢なくしては、
何も始まらないのだろうということを
本書を読み、姿勢を正しながら深く実感させられることになった。