風のメモワール112

ワキの世界(宝生閑)


2009.1.9

ワキから見た能について興味を覚えたのは
2年ほど前にでた安田登『ワキから見る能世界』だった。
ワキは旅を続けるなかで異界に迷い込み、
死んだ霊であるシテと出会いその語りを聞き舞を目にする。
そんなワキの視点から能をとらえ
ワキ的世界を生きることについて書かれている視点を知った。

どちらかといえば、狂言のほうを
DVDなどで目にする機会のほうがそれまでは多かったのが、
そうした視点を得たことで少しずつ視点をずらしながら
その後はおりにふれて能を見てみる機会を持つようにしていた。

そんななかで、土屋恵一郎の狂言に関する
野村万作、野村萬斎、杉山千作に関する著作に続き
能のワキ方の宝生閑からの話を聞き書きしたものが出たので
読んでみたいと思いながらもそのままになっていたが、
ちょうどシテ・観世寿夫、ワキ・宝生閑による
『井筒』を見る機会があったので、
ちょうどいいタイミングだろうと思って読み始めている。

「ワキ座に座ってじっとしているワキは
そのじっとしているあいだなにを考えているんだろう?
時間をもてあましているんじゃないか?」とかいった
正直いってきわめて素朴で稚拙な疑問とかもあったのだけれど、
宝生閑の語るワキの世界はちょっと驚くべき視点をもっていて
これからは能を見る視点がぼくのなかでずいぶん変わってきそうである。

 「ワキ座に座っていて面白いんですか?」
 「面白いよ。能というのはワキが場面設定するでしょ。つまりシテは
 観客のために出てくるんじゃなくて、ワキのために出てくるんだよ。」
 ・・・
 「そうですね、能全体はワキの世界ですね。」
 「こんなに大勢の人たちがいるのに主人公は僕一人のために出て来た
 んだと思えるわけ。それを受け入れちゃうと、向こうの世界にタイム
 スリップできるんだ。中世にまで行けちゃって、もっと古代の『源氏
 物語』や『伊勢物語』の世界にまで入って行けちゃうんだよ。この中
 世や古代の世界にまで入って行けるという感覚はワキだけが感じとる
 ことが出来るんだ。その中にしかシテは出てくることが出来ないんだ
 と思うと、ざまあみろって思っちゃう(笑)。」
 「観客からするればワキを含んだ世界を見ているわけです。物語の世
 界を直接受けとめているのはワキだけなんですよね。」
 「そうなんだ。だから逆にいうと、誰もいなくても出来ちゃうんだよ
 ね。」
 (土屋恵一郎『幻視の座/能楽師・宝生閑 聞き書き』
  岩波書店 2008.8.26発行/P.61-62)

こうしたワキの視点は、
霊的な世界を見る視点として考えても大変興味深いところがある。
ことさらに霊的な世界云々といわなくても
自分が出会うさまざまな現・夢・またはそのあわいの世界などで
自分がどのようにそれらに出会い、対話し、その世界を受けとめるか。
ということをワキ的な視点で見てみることができるということにもなる。
さらにいえば、小林秀雄が『本居宣長』で試みたようなありようもまた
ある意味でこうしたワキ的な目だったのかもしれないとかも思えたりする。
死者の世界であれ、古代の世界であれ、天上のあるいは地下の世界であれ、
ある世界に分け入るためには、多かれ少なかれ、
生者でありながら異界に対峙するためのワキ的なスタンスが
どうしても必要であるということでもあるのかもしれない。