風のメモワール111

たくさんの主語を立ちあらわれさせること


2009.1.8

松岡正剛の『連塾』が本になった。
全3巻の予定でまず一巻目。
いつもながらすごく刺激的で楽しい。
なによりもとても「遊」で「自在」なのがいい。

よく思うことなのだけれど、シュタイナーが、
こうした松岡正剛のスタンスである「連」的なありようでいられて、
そうした人智学を展開し得たとしたら、現在のアントロポゾーフもずいぶんと
風通しよくかつ柔軟であり得たのではないかと少し残念な気持ちになってしまう

しかしながら、考え直してみると、
現代というのは、この松岡正剛もシュタイナーも
その他のさまざまな稀有のものを夥しいまでに
まとめて享受できる時代である。
そのことをあらためて深く感謝することで今年の
ぼくなりの遅々とした歩みを続けることにしたい。

 誰だって、好きなものがいろいろあります。
 きっと、たったひとつのジャンルのものを限定して好むということは、
 めったにないと思います。でも、「たくさん」という状態をそのまま保つ
 ことは案外難しくて、たいていそれらはジャンルというものに分けられて、
 「どういうジャンルの音楽が好きだ」とか「これこれのジャンルのアート
 が好き」といったところへ追いやられていってしまう。
 そこをそうしないで、なんとかもう一度述語化してみる。好きなものが
 あれば、それをさまざまに言い換えてみる。そこからもう一度主語に戻し
 ていったときに、今度はたくさんの主語が騒然と立ちあらわれていくはずです。
  そのようなものを大量にもってスサビをおこすというか、荒れるという
 か、遊びのような闘いを挑むというか、そうしたことに向かっていきたい
 ものです。ちなみに私の名刺には三十年来にわたって肩書きがないんです。
 肩書きをもたないことによって、何にでもなれるし、お気に入りの誰とで
 も共闘できるんです。
 (松岡正剛『連塾/方法日本1』春秋社2008.12.20発行/P.83-84)

年末年始、熱に浮かされた夢現のなかで
いろんなことを妄想していたりもしたのだけれど
ひどく苦労して苦悩して悲しんで成立させてきている
この自我という氷山のほんの一角の部分の部分というのは
それそのものにフォーカスできることは大変重要であるものの
その実、夢現のなかで浮遊しながら
意識と無意識をさまよっている夢や夢にさえならない自分のほうが
ずっと多様で変幻自在で大きくなったり小さくなったり
水蒸気のようにぼんやりしてみたりいろんな色になってみたり
はたまたいろんなものに付着したりまねっこしてみたり・・・と
いうこともまたできるわけで、
ひとときフォーカスすることのできる能力をたしかに育てながら
そういうシャーマン的なありようのなかでの能力もまた
同時に飛翔させてみるというのもいいかな、ということを思ったりしていた。

まあ、そのほうが、いろんな「好き」を楽しめるわけだし、
なにかに自分を限定させすぎるというのは、なんにせよ窮屈すぎる。
とはいえ、窮屈のままでもなんとか成立できるような自分も
またその自在な能力に不可欠なひとつだということも決してわすれずに
いわゆる「等身大のわたし」がおろおろ歩いている感覚も大切にしたうえでだけれど。