風のメモワール110

年始雑感


2009.1.4

年末年始は、5年ぶりでかかった風邪で
ほとんど寝たきり状態に。
年末にこんにゃくをつくったのだけれど、
ぼくのなかではどうもアクヌキがしっかりとできていなかったようだ。
いちおうトポスでも年始の挨拶をと思っていたのが
けっきょくネットにつなぐことさえシンドイことになり、
あまりおめでたくもない感じになってしまったので、
やっと自宅へ這う這うの体で帰還し、ネットをつないで
年始の挨拶とかいうのは抜きにして、雑感。

年賀状関係のなかに
昨年のテレビドラマ『風のガーデン』をひどくほめたコメントがあった。
たしかによくできたドラマだったとは思うけれど、
そして緒方拳という存在を考えると
ドラマ以上にドラマチックなものがそこにはあるのは確かだけれど、
はたしてテーマ展開としてどうだろうか・・・というのが個人的な感想。
いろんな意味で啓蒙的すぎるくらい啓蒙的であるのに加え、
その啓蒙がどこか逆行的で感傷的すぎて見ていてすこし辛い。
つまり、過剰演出と理屈っぽさを感じてしまうのだ。
象徴的なのが、「ガブリエル」であって、
けっして「ミカエル」でないところで、なるほどというのはある。
傷ついた聖杯王を救うのはパルツィバルの問いである。
その問いかけこそが掟の桎梏からの自由へ向かう道ではないだろうか。
『風のガーデン』には、そのパルツィバルの問いがない。
それでは、「家族に囲まれて死んでいく」以外のなにも残らない。

つくりこみとしては『風のガーデン』と比べることはできないだろうが、
個人的にいえば同時期放送の『夢をかなえるゾウ』のほうが、
(まあ、ひどく啓蒙的ではあるのだけれどほとんどダジャレ状態なので許せる)
ある意味、パルツィバルの問いに近いものを感じたりもした。
自由への道も開かれている。

それから、紅白歌合戦はほとんど見てないけれど、
たまたま少しだけ目にした
森山直太朗の『生きているのが辛いなら』がすごくて
そのときだけ釘付けになった。
こんなすごい曲をつくれる人だったんだと見直す。
ひどくストレートなメッセージソングなのだけれど、
世界観の提示としてもちょっとどきりとする。
ニヒリズムすれすれのところでその力を逆転させるような
力強いことばのちからがまだ可能なんだと感動。
小さく死ぬこと、悲しみを見据えること、
そして小さな水飲み場としての宇宙、
クタバル喜びをとっておくこと・・・。

ところで、年末年始、ほとんど朦朧とした意識のなかで
ミンデルの『人間関係にあらわれる未知なるもの』を
少しずつ読んでいたのだけれど、
これだけ平易に書かれているにもかかわらず
すらすらと読み進めることができるような本ではない。
熱で浮かされているというのはあったかもしれないが、
人間関係というテーマがある種手つかずになっているぼくにとっては
ひとつひとつの事例が珍しくかつ驚きで考えさせられてしまうからだろう。
この人間関係というテーマもまた現代と未来に向かった
パルツィバルの問いなのだろう。
ぼくにとっても今年の大きなテーマのひとつになりそうだ。