風のメモワール11

渋さの似合わない人


2007.7.12

「このポップ・マエストロの音楽に、“渋い”という言葉は似合わない」
ポール・マッカートニーの新譜『memory almost full』についての批評から。
(「Invitation 8,9合併号」より)
「ポールは、いわば“無意識過剰の天才”なのだから」とも。

とくにポールのファンではないのだけれど、
なぜか新譜がでるときいてしまうことになる。
そして確かにその都度、「渋い」とか「深さ」とか、
はたまた「意識的」とかいった言葉とは反対の印象を持つことになる。
今回も同様。

それは否定的な感想というよりも、
65歳になったポールにしてからのこの変わらなさへの、
ある意味の賛辞なのかもしれない。
それは、シャガールやミロなどの絵画を見るときに感じるものと
どこか通じているところがあるような気もする。

ふつうは、井戸をほっていけば、
井戸は深くなるものだし、
色を塗っていけば、色が重なっていくものだし、
音を深めていければ、
思想を深めていけば、
言葉を深めていけば・・・、と
どこかでなんらかのそうした変化を
余儀なくされていくところがあるのだろうが、
ポールのスゴサというか天才というのは、
そういうプロセスを度外視したところで成立する。
ある意味、POPの神様がそのまま降臨した感じだろうか。
深まったPOPというのは、その軽さを失ってしまうだろうから。

なぜ飽きもせず(でも、半分は飽きて呆れながらだけれど)
ポールをきくかといえば、
その普遍的な軽さを、裏切られず楽しみたい、
ということなのかもしれない。
決して、深まることで人を裏切ることのない音楽。
これはこれで、とってもスゴイことなのかもしれない、と
あらためて思った次第。

変な、意識過剰の天才よりも、
無意識過剰の天才のほうが、長生きできるし、
楽しみも長続きするということなのだろう。

もちろん、意識過剰の天才の苦悩というのも、
世界には不可欠なのだけれど、
苦悩の似合わない軽さというのもときには、ね。