風のメモワール109


2008.12.23

蝋燭の灯で能を楽しむという蝋燭能のDVD
「蝋燭能-鬼づくしの二夜」で「鬼」を堪能している。

「鬼」という大変煩悩の塊のようなテーマではあるけれど、
ちょうど108番目の煩悩を超えたところということで少し。
「二夜」のうち最初の夜は「鉄輪」、第二夜が「紅葉狩」。
「鉄輪」は、捨てられた女性が鬼になる生なりを陰陽師が鎮めるという話、
「紅葉狩」は紅葉のさかりに鹿狩りに来た将軍が
上臈(身分の高い夫人)と侍女たちの宴に誘われ酔いふしたところを
実は鬼女の化身だったものたちに襲いかかられるのを退治するという話。

シテは観世喜正。
その解説で能面や装束などについての話もあって、
鬼の面の話はとくに興味深い。
鬼の面には男の面と女の面があって、
角の出ている面は女の面だけだそうで、
その鬼の度合いも、最初は生なりで角が少しだけ出て、
さらに般若の面になると恨み、つらみ、怒りや悲しみがスケールアップする。

生なりというと、野村萬斎主演の映画『陰陽師』にもでてきたが、
恨み、つらみ、怒り、悲しみが嵩じて鬼になってしまうとことは、
人の心の闇について深く考えさせられてしまう。

実際、人の心というのは、その人をその心に応じた存在に変えてしまう。
神秘学的にいわれるエレメンタルというがあるが、
それは、その人の思ったこと、念じたことが
そのままある種のエネルギーの塊になって実体化してしまったもの。
そしてそれは一度発されてしまうと自然に消えてしまうことはなく、
その逆のエネルギーを用いないと相殺されないでそのまま働いてしまう。
そしてときには、それらの同種のエネルギーが増幅しあって
とほうもないエネルギー体とさえ化してしまう。
だから自分の出しているマイナスの思いがあれば、
それと同種のエネルギーが寄ってきて増幅し、
「生なり」のようにさえなってしまいかけないわけである。

ある意味で、この世の中のさまざまな現象は
そうしたエレメンタルの合戦のようになっているとさえ
いえるのかもしれない。
それにカルマが交錯してさまざまな絵巻を繰り広げることになる。

鬼というと大変怖いイメージがある。
そういえば、小さい頃親戚の家に泊まりにいったときに、
その部屋に般若の面が飾られている部屋に寝かされて
大変怖い思いをした思い出があるが、
鬼の怖さというのは、結局人の心の怖さでもあって、
そのこわさにくらべれば面の怖さなどは知れているといえばいえる。

さて、鬼というテーマに関して思い出すのが、
30年ほど前になるが、はじめて鬼についてのテーマについて
まとまって考えさせられたのは、
馬場あき子『鬼の研究』(角川文庫)だった。
その表紙には、般若の面の写真がクローズアップされている。
久しぶりに本棚から出してみると大変懐かしい。

懐かしい箇所を引用しながら思い出してみることにしたい。
少しだけおつきあいを。

  世阿弥は<鬼の能>にふれて、「形は鬼なれども、心は人なるが
 ゆえに」という一風を想定している。私が鬼とよばれたものの無残
 について述べようと思うのも、このような人間的な心を捨てかねて
 持つ鬼に対する心寄せからである。
 (・・・)
  そしてここで、私はもういちど、<おに>と<かみ>が同義語で
 あったかもしれぬという説に立ち止まらざるを得ない。それは、い
 いかえれば人間の心に動く哀切な両面である。空気の清澄な月明の
 夜、時ならぬ鬼哭の声をきくことは稀ではなく、日頃姿を見せぬこ
 とを本領とする鬼が、ふいに闇から手をのべて琵琶の名器を弾奏す
 るなど、まことに哀れである。その時、鬼の心に去来した瞬時の回
 想は何であったろう。吟遊の声を奪って詩の下句を付し、敬愛する
 詩人の門前に礼拝をなして過ぎゆく鬼の心に、常ならぬ心の高鳴り
 を覚えるのも、じつに、あるいはわれわれ自身が、孤独な現代の鬼
 であることの証拠かもしれない。

せっかくなので、鬼について
別の出し物も見てみたいと思い、
歌舞伎ヴァージョンの『紅葉狩』も見てみた。
市川團十郎と市川海老蔵によるパリ・オペラ座公演のものだが、
この歌舞伎ヴァージョンというのは、
先の蝋燭能のような怖さはほとんどなく、
むしろ笑いながら見ることのできるほどの気軽さである。
海老蔵の鬼女&鬼も大変楽しい。
やはり、歌舞伎は歌舞伎、能は能である。

能が霊を鎮めるものでもあるのだということをあらためて感じる。
旅の僧が亡霊に供養を頼まれるという夢幻能があるが、
現代においてその力はいかほどのものだろうか。
かつて能が担っていたその力は、
現代においては、何が担っていかなければならないのだろうか。
できうれば、芸術にその力があればと願うのだが、さて。