風のメモワール108

宮沢章夫と土屋賢二


2008.12.22

本屋をのぞいたら
宮沢章夫の『アップルな人』と
土屋賢二の『ツチヤの貧格』という
演劇と哲学というまったく違う分野の人でありながら、
そのお笑い度では互角の二人の新刊がでていた。

横綱級の対戦というわけではなく
あえていえば前頭筆頭どうしの対戦という感じではあるけれど、
これはある種、壮絶な戦いを余儀なくされるお笑い対戦になる。
「メモワール」もこれで108つめになるので、
煩悩をテーマに書いてみたいと思った、というわけではないが、
この両者、ひとの煩悩そのものを扱いながら、
真っ向勝負というのとは無縁に
不思議な角度から煩悩を表現するのが似ているのかもしれない。
まるでメビウスの輪のような当たりかたをするとでもいえるだろうか。

宮沢章夫は
『牛への道』『わからなくなってきました』
『よくわからないねじ』『青空の方法』
というように、いつも「よくわからなくなってくる」ものを
好んでとりあげ、よくわかっていると思っていたものさえ
わからなくさせてしまう名人である。
つまりまっすぐな道を歩いているはずが、
いつのまにか迷宮にはいって
まさに、わからなくなってくるのである。
この名人芸は、読んだことのある人なら、まったく独自である。

それに対して、土屋賢二(土屋教授ともいう)は、
『ツチヤの口車』『妻と罰』『貧相ですが、何か?』
『汝みずからを笑え』『棚から哲学』『人間は笑う葦である』
というように、みずからを笑うことをテーマに
よく登場する「妻」の話題も含め、
どこまで本気なのかお笑いなのかが
見定めがたくなってしまうほどの不思議な文章である。
なかには『ツチヤ学部長の弁明』のように
嘘と真が同居しながらつくりあげる
クラインの壺になってしまっているようなものもある。
いちどその文章をきちんと解読しようと思って
それを論理と現実といった切り口で読み進めようと思ったことがあったが、
そうしているうちに、これは
現実と思っていたものが次第にねじ曲がっていく
一種のホラーではないか、という感に襲われたことがある。
とくに、「妻」の話題などはちょっと壮絶である。

よくわからなくなってくるものの
宮沢章夫の文章は現実が見えている範囲での笑いだが、
土屋賢二の文章は笑いながら怖くなってしまうのだ。
つまり、宮沢章夫の文章はファンタジー的な逃げがあって余裕をもって読めるが、
土屋賢二の文章は現実そのものが騙りそのものになってしまい
どこにも行けないまま笑うしかなくなってくるのだ。
メビウスの輪は不思議だとしても現実につくれるが
クラインの壺は実際につくることができない。
そのクラインの壺を土屋賢二はつくってしまうのだ。

ということでメモワールの百八目は
わからなくなってくることが気になってしまうという煩悩についてでした。