風のメモワール104

おくりびと


2008.11.27

ほぼ日で、「死を想う」という
中沢新一と本木雅弘、糸井重里による興味深い座談会が連載中。
いうまでもなくモントリオール国際映画祭でグランプリを受賞した
本木雅弘主演の映画「おくりびと」の公開がきっかけで行なわれたもの。
(とはいえ、映画はまだ観てないのだけれど・・・)

 中沢 だいたい、日本のお葬式というのは
    20年くらい前から、変わりはじめたんですよ。
    (・・・)
    まずはね、葬儀屋さん業界がみずから、
    ドラスティックな変革をはじめたんです。
    (・・・)
    というのも、日本人は長いあいだ、
    人の死にまつわる「けがれ」というものを
    お坊さんに任せっきりにしてきた。
    お坊さんに「丸投げ」にして、
    思考停止しちゃってたんです。
    (・・・)
    むかしのお坊さんは、
    自分たちが「おくりびと」であるという意識を
    つよく持っていたんですよね。
    その「けがれ」を引き受けるという役目を
    しっかりつとめてきたんですけど、
    時代がくだるにつれて、
    それも、じょじょに風化してきてしまった。
     (・・・)
  糸井 で、お葬式の一切合切のとりまとめ役を
     葬儀屋さんが担うようになってきたわけだ。
  中沢 そう、それはつまり「お坊さん」じゃなくて、
     「わたしたちの側」で、
    「死の問題」を、引き受けるということ。
  中沢 「千の風になって」なんて歌が流行るのも、
     われわれの「死」に対する意識の
     変化のあらわれなのかもしれないですよね。
     (・・・)
  中沢 産業化した「お葬式」が主流となってきたいま、
     「死」というものに対する
     あたらしくて、でもふるい意識が
     われわれ日本人のなかで、芽生えはじめてる。
     (・・・)
  本木 そのあらわれのひとつが「納棺師」だと。
  中沢 納棺師という職業が生まれたのって‥‥。
  本木 1969年に起きた
     函館の漁船沈没事故がきっかけと言われてます。
  中沢 ‥‥「葬儀屋の企業化」と、軌を一にしてる。
  (「死を想う」第3回お葬式(ほぼ日)
  http://www.1101.com/okuribito/index.html)

葬儀について書かれたもののなかで
とくに印象に残っているのは
一条 真也『魂をデザインする〜葬儀とは何か』である。
もう15年以上前の著書だけれど
おそらく今読んでもそれなりに面白いのではないかと想っている。
(たぶん、押し入れのなかに眠っているはずだけれど)

個人の趣味でいえば、
葬式というのはどうも興味が持てないというか
少なくとも自分の葬儀はしたくないものだと思っているけれど、
葬儀そのものに意味がないと思っているわけではない。
できれば、本来、仏教でいえばちゃんとした僧侶がいて
ちゃんと「引導を渡す」ことができたほうがいいとは思っている。
そうでなくてはやはり死を迎えた本人は混乱してしまうだろうからである。
混乱してしまうがゆえに、
「千の風になって」ではないが
お墓に私はいません・・・とかいいながら、
実のところ行き場がなくて墓にいる気分になったりもするのだろう。
やはりそういうのは困ったものなのだ。

ところで、「おくりびと」という映画ではじめて
「納棺師」というのを知ったのだけれど、
上記の座談会でいえば、その仕事ができたのは
1969年ということになる。
それまでは、その仕事が独立して存在してはなかった、と。

しかし、現代を生きる私たちの「死」に対する意識というのは、
ほんとうにすごい振幅をもっているように見える。
「死」がわからないがゆえにそれを過大視し
やみくもに葬儀とか墓とかにこだわる人たち。
また、逆に死んだら終わりだと思っているので
そういうことに対してまったく否定的な人たち。
(とはいっても、死んだら終わりという人たちというのは
意外にわからないがゆえに、墓とかいう発想から離れなかったりもする)
それからもちろん、死後のことをある程度理解したうえで、
それなりに対処が必要かな、とか思っている人たち。

こらからそうした振幅がどうなっていくのかわからないが、
たしかに、これからの葬儀屋のありようを観察していけば、
全体としてどういう意識に向かっていくのかというのは
おおよそ見えるところはあるのだろうと思っている。

そういえば、仕事でも葬儀屋さんの広告の仕事も
いくつか手がけたことがある。
生前葬のPRビデオとかもつくったことがあるが、
そういう経験からいうと、
葬儀屋さんたちは生き残るために
これから先のニーズにひどく敏感であることだけは確かである。