風のメモワール103

蟲師、降幕


2008.11.26

漆原友紀『蟲師』は、第10巻という
きりのいいところでもって降幕とのこと。

漆原友紀の世界は、おそらく
別の作品でも展開されることになるのだろうが、
この『蟲師』はあまりにも独自の世界なので、
それがどんな形で展開していくのかは
まったく予想ができない。
残念さと同時に期待感も大きい。

最後の話となった「鈴の雫」もそうだが、
『蟲師』の世界は、静かな悲しみに満ちている。
この静かな悲しみというのは
ぼくにはとても懐かしいものだ。
それがどこからくるものかわからないのだけれど、
この悲しみというのはぼくの基本感情に近しい。

西田幾多郎は、哲学の根底には悲しみがある
ということを言っていたと思うが、
アリストテレスが示唆する「驚き」というのも
とても重要な要素としては確かにあるのだけれど、
「驚き」のずっとまえに、
「悲しみ」は存在そのものの質として
すでに否応のないものとしてそこにはある。

その悲しみの淵源について
おりにふれて考えてみることもあるのだけれど
なぜなのかはいまだによくわからない。
ただ、悲しみの川は深みを確かに地下水のように流れている。
村上春樹ばりに、井戸の底に降りていって、
その暗がりのなかでじっと座ってみるならば
その地下水の気配は濃厚になるのかもしれない。
そして、ひょっとしたらその井戸の底で
悲しみという地底湖と通底し、
そこから別のどこかへとつながっている、
ということなのかもしれないのだけれど。

蟲師の世界は、西洋的な自我の世界とは異質だけれど、
その自我という樹木として育ってきている
その根っこに広がっている世界には
こうした私たちを知らずとりまいている世界が同時にあって、
ひょっとしたら、この地球紀において、
自我をもってこうして生き始めている人間にとって
悲しみというのは、その根っこの広がりの部分を感受するときに
いやおうなく広がっている世界なのかもしれない、とふと思う。

できうれば、自我がしっかりとした
宇宙的な大樹となることができ、
そこにさまざまな花や実りを得ることができますように。
そして、その根っこのまわりに広がる世界の向こうに
悲しみをこえた広がりがあることに気づくことができますように。